日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。・・・朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、・・・イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」(ルカ4:40~43)
私たちは、自分たちのことばかりを考えていると、権利のみを主張して、都合の良いものに変えてしまおうとするものです。神様の御前に出ても、わがままなままでありませんように。聖書は私たちに何と語っているのか、神様のご計画や御心はどこにあるのか、私たちは神様の真理を祈り求めていく者でありたいと思います。
単に癒やしを祈り求めるだけでなく、イエス様は私たちの救い主であり、また癒やし主であり、私たちの命そのものに関わってくださるお方でありますから、イエス様がどのようなお方であるのか、本質を理解して、祈って癒やされていきたいと思います。2つのポイントを確認してまいりましょう。
1. イエスは救い主としてこの世に来られた
主イエス様が到来された目的は、「救い主(キリスト)として人々を救うこと」です。イエス様は、この福音を一人でも多くの人に伝えるために、私たちのところへ来られました。福音とは何ですか。神が私たちを救ってくださる約束であり、私たちを救う神の恵みの業が、事実として人々に届けられることです。福音は、Good News。良い知らせを聞いて自分のものにすれば、それが私たちの人生を変え、私たちは本当の幸せを手にするのです。
人々は、イエス様に出会って興奮していたことが分かります。人々が聞いたイエス様の言葉には、権威がありました。イエス様が祈ることによって病が癒やされて、悪霊の力からも解放されたからです。人々はそんなイエス様が去ることを引き止めました。しかしイエス様は、自らの御言葉、御業を通して、神ご自身の啓示の現れとしての救い主そのものがそこにいることを、一人でも多くの人々に伝えなければならないと語られています。
私たちはイエス様を礼拝し、癒やしを祈りますが、その前に、今も生きて働かれるイエス様を救い主として信じ、受け入れてまいりましょう。
2. 癒やしと解放が常に存在していた
イエス様は、癒やしや解放のために特別な機会を設け、また特別な祈りをされていたわけではありません。イエス様がおられるところには、当たり前のように、ごく自然に癒やしと解放があふれていたのです。
イエス様が行かれるところ、また、出会う人々は皆、ありとあらゆる病、患いがことごとく癒やされたのです。イエス様は一人一人に手を置いて、おびただしい数の人々を癒やしておられたことが当たり前の毎日だったのです。また、イエス様の前では悪霊の方から叫び声をあげて逃げ去っていき、悪霊の支配から人々は解放されていきました。イエス様は神の子ですから、悪霊に対する霊的な権威が初めから備えられていました。イエス様がおられるところには、当たり前のように癒やしが現れていたことを知りたいと思います。これが聖書の語るイエス様のお姿です。
私たちは、イエス様のお名前によって祈りますが、聖書の語るイエス様に結びついて祈る者でありましょう。私たちの目の前に真の救い主である主キリストご自身がおられ、このお方に近づいていく人々がごく自然に癒やされ、解放され、神の業が如実に現されることを信じて、祈っていきましょう。
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