フラー流の手法
もう一つ気になることがある。それは米国の文化人類学の傾向である。米国では、インディアンの研究が盛んである。これは南米のインディオの中に入って生活を観察して『悲しき熱帯』を書いたレヴィ=ストロース以後の現象であるが、ミードのサモアの研究やベネディクトの『菊と刀』へと受け継がれ、またギアーツのバリ社会の観察より著した『劇場国家論』などがある。
インディアンは、無文字社会である。研究者は伝説や通過儀礼、生活習慣などを観察して分析するのである。ルース・ベネディクトは無文字社会のこの研究の手法を使って、戦時中に日本兵捕虜を通訳を使って尋問して、その結果をまとめた。日本は無文字社会ではないが、この研究の手法で、斬新な成果を得た。それまでの日本研究にはない手法で日本文化をえぐった。
ベネディクトは、文献主義が陥りやすいアカデミズムを避け、新鮮な切り口で日本文化のさまざまな面を見せた。その点では、大きな意味がある。米国の宣教学はそのあたりを受け継いで、無文字社会の分析の方法論を使う。しかし、それをそのまま日本の分析に使うのは、実りが少ないように思う。日本文化を論じる場合に、日本の思想を無視してよいはずがない。文献には、時代を代表するような知性からの発言があり、また民衆のつぶやきもある。
フラーの宣教学は、文献から読み取れるものをどう考えるか、という点では整備されていないように感じる。どうも、そこに筆者は、怪しさを感じる。教授たちと話すと、自分たちの手法で世界の宣教は前進する、という熱気が感じられる。ところが、日本のように古くから豊かな文化を持っている国に対する対処の仕方は、思考の中にはなく、別の対処が必要であるという認識は、不在であるように感じる。
その点で奥山実の漱石論などは、日本の宣教論として福音派からの貴重な試みであると思う。佐古純一郎のものは、面白いのだがアカデミックな興味に過ぎて、現実の日本社会の中での教会の構成にどう応用するのか、その取っ掛かりがどうも小生には見えない。
また歴史を見据えることも重要である。歴史を見ないものには、自己検証はない。フラー流の宣教学にも、キリスト教の自己検証はあるが、やはり西欧のキリスト教界の中での発言であり、西欧流の検証ということを脱していない。実は、これこそ宣教学の主要な部分なのだと思う。
またこれは一般の傾向であるが、今日の傾向として処理しやすいデータ、客観的データを並べてまとめる、言い換えればコンピュータに乗せやすいものだけを取り上げる、そういう傾向がある。これでは論文として体裁がよくても、現実が発しているシグナルは見落としそうである。普段は見えていないものを読み取ってこそ、役に立つ研究となるのではないか。
本来なら別に一つ章を立てて、主要な宣教学の理論の幾つかの紹介に充てるべきであろうが、今回はそれをしない。フラー宣教学は「福音の伝達」を論じているが、「礼拝者共同体の成立と定着」を論じていない。つまり西欧流の「ほんとうに信仰を持てば、自然に教会に所属するはず」である、という前提で、すべてを処しているように見える。そうして、その前提そのものを疑ってはいないように見える。フラー宣教学ばかりでない、ひいては米国の宣教学はすべて一つの社会における礼拝者共同体の形成の力学を論じるところまで成熟していない。そういうふうに思うのである。
つまり、真に救われた者は自然に教会を形成するはずである、という前提で論じられている。この前提は文化の産物である。こういう前提の可否について論じるのは、その文化の中にいる者ではできないだろう。
やはり異なった文化の中で、教会形成に苦労している者たちができるのである。少なくとも問題の存在を認識し、発議する責任が日本の我々にあるといえよう。その文化の中にいれば、中々気が付かぬものである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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