某有名俳優が大麻の所持と使用で逮捕され、世間を騒然とさせた。主役級ではなくとも存在感のある役柄を掛け持ちしていたこの俳優は、もしも出演作品が「お蔵入り」となってしまえば、周りの関係者は多大な被害を受けることになっただろう。この傾向に歯止めをかけるべく、彼の出演最新作はシーンカットなしで公開され、議論を呼んだ。聞くところによると、被害総額が数億円となる見込みで、これを彼が一人で背負うことになる。どうも妻とも離婚し、文字通り「一人」になって再出発することになったようだ。
私も含め、多くの日本人にとってまだまだなじみのない「ドラッグ」。もちろん中学生や高校生がこれらを使用したとして時々事件となるが、米国のドラッグ事情に比べるとまだまだかわいいものだろう。映画のラストに字幕で示される現状は、思わず二度見して確かめてしまいたくなった。
「米国の50歳以下の死因、第1位は薬物過剰摂取である」
そう言われてみると、ハリウッドスターが薬物更生施設に入所したとか、突然死したとかいうニュースは、もはや毎年恒例のこととなっている。私が記憶を思いめぐらすだけでも、これだけのスターを挙げることができる。ホイットニー・ヒューストン、マイケル・ジャクソン、ヒース・レジャー(「ダークナイト」でバットマンの宿敵ジョーカーを熱演)、フィリップ・シーモア・ホフマン(2005年アカデミー賞主演男優賞受賞)、ロバート・ダウニー・ジュニア(存命。更生施設に入所し、復帰する。「アベンジャース」のアイアンマン役)・・・。
この現状に対して、一石投じる作品が日本でも公開された。「君の名前で僕を呼んで」でアカデミー賞主演男優賞候補になったティモシー・シャラメ主演の最新作である。ドラッグ依存に陥った青年とその父親の手記を基に、ベルギー出身の映画監督フェリックス・バン・ヒュルーニンゲンが英語圏で初めてメガホンを取った秀作である。
原作となる父と息子それぞれの手記は、全米でベストセラーとなり、大きな注目を集めた。父親のデヴィッド・シェフは音楽ライターで、ジョン・レノンの最後のインタビューを行った人物として、その世界では有名である。息子のニックは、薬物依存を断ち切る地獄のような10数年間を経て、現在はネットフリックスで人気の「13の理由」シリーズの脚本家として成功している。
父デヴィッドにとって、ニックは自慢の息子だった。彼の母親と離婚したときも文句一つ言わずに自分についてきてくれたし、義理の母として家にやって来た女性ともうまくやっている。また、その後生まれた異母きょうだいたちの面倒見もいい。さらに受験した大学は6つともストレート合格!
そんな自慢の息子を彼は「ビューティフル・ボーイ」と呼び、ハグするときは、“Everything”(「すべて(を愛している)」)と言葉を掛け合う間柄であった。ところが、である。
その息子が実は薬物依存で、ありとあらゆるドラッグに手を出していることが判明する。最初のうち彼は「自分にもっと厳しくなれ」と叱咤(しった)激励する。しかし更生施設に入ってもそこを抜けだしたり、よくなったかと思うとまた薬に手を出したりする様を見て、自分には息子を救うことはできないと観念するのである。
劇中、ニックは15回施設を入退所し、大学に進学して一人暮らしになるとまた薬に手を出す。そして知り合った女の子と性交しながらドラッグパーティーをするような生活をしていくのであった。
彼の更生のために、父親のみならず、別れた母親、そして義理の母までが奮闘する。その家族愛に私は観ていて涙が止まらなかった。しかし、その期待と愛をニックはことごとくあだで返すのである。その姿に私は「勝手にしろ」とつぶやきたくなってしまった。
映画は一見、「父子の愛の物語」を売りにしているようだが、中身はまったく異なる。ニックを誰も、どんな存在も救うことはできない。そして彼自身でさえも。ここで私たちキリスト者は「だから神だけが・・・」と大上段に究極的な解決を振りかざそうとするが、ニックとデヴィッドの物語はそんな単純ではない。
宗教的な施設でも、また医学的な更生機関でも、彼は立ち直れない。その根源的理由を垣間見せる印象的なシーンがあった。ニックが何度目かの入所となった更生施設で、1年以上も薬から遠ざかっているとき、自分の過去を振り返って皆の前でこう語った。
「僕は今までドラッグ中毒に何度も陥っていました」
すると指導員の男性がこう切り返した。
「ニック、それは君の問題の根本じゃない。それは問題からの逃げだろ。もっと自分を見つめ直すんだ」
つまりドラッグに手を染めることが問題ではなく、ドラッグへ「逃げざるを得ない」本人の問題は何なのか、それを見つめ直さないと、真の改善はあり得ないということだろう。それから彼は父親の前で「いい子を演じてきた」ことを思い出す。
そして、問題の根本に気付いた彼はこれで――。いやいや、彼はその後もまたドラッグに堕(お)ちていくのである。
本作は、決して動的な愛の物語、更生物語ではない。泥だらけになってはいずり回り、それでも答えを見いだせないまま、立ち尽くす親子の、家族の、苦悩と葛藤の赤裸々な記録である。お涙頂戴の「美しい映画」を期待してはいけない。だが、劇中何度も父のデヴィッドが「お前はビューティフル・ボーイだ」と語るその言葉の中に、彼をそのまま受け入れたいと願う親の根源的な愛を見た。それは誰かを劇的に変化させる魔法の薬(ドラッグ)ではない。ただそこに寄り添い、同じ空気を吸い、言葉をたくさん紡ぐのではなく、そこにいるだけでいいんだよ、と全身で醸し出す「父なる愛」の姿である。
考えてみると、私たちキリスト者は、救われる価値なき者としてこの世に生きていた。しかし、その私たちを「そのまま」受け入れてくれたのが天の父ではないのか。
観終わって、有名な放蕩(ほうとう)息子の話を思い出した。
息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」 しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:21~24)
注目すべきは22節の「しかし」である。父親は息子の弁解を聞いていない。そうではなく、彼が帰ってきたことを喜び、そのまま受け入れている。
私たちもそうやって救われたのだとしたら、できる限り、そのような愛を示す者でありたい。
元号が変わり、新たなスタートを切る季節がやってきた。ちょっとそれには似つかわしくないが、真剣に「愛すること」について考える機会をこの映画で持ってみてはいかがだろうか。
■ 映画「ビューティフル・ボーイ」予告編
◇