2月の沖縄訪問は、例年に比較して2月2日から13日までの短期間でした。しかし充実した集会や個人・家族との深い交流を重ね、心満たされました。例えば、2月10日(日)に、沖縄県うるま市の安慶名(あげな)バプテスト教会創立47周年記念主日礼拝で宣教(説教)を担当したことです。
安慶名バプテスト教会の平良善郎牧師は、沖縄聖書神学校時代の私の教え子で、卒業論文の指導も担当、家族ぐるみの主にある交わりを深めています。平良牧師は、下記に見るように沖縄説教塾の活動で大切な役割を果たしています。
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「沖縄説教塾とは」 沖縄説教塾事務局 平良善郎(安慶名バプテスト教会)
1. 説教塾とは
加藤常昭師が1986年にハイデルベルク大学の大学創立600年の歴史を祝った記念シンポジウムに出席し、その中で、各国で説教の研修・研究を強化しようと申し合わせがあった。それに応えて、加藤常昭師が声を掛け、わずかひと握りの説教者たちが集まって、毎月一度の勉強会が始まったのがスタートである。現在、開塾以来30年を経過し、北海道から沖縄まで18地域での集いが生まれ、泊まりがけのセミナー、その他の説教塾の学びに参加する説教者たちの数は約250人を超え、その所属する教派は20を超えている。この沖縄の地でも、2007年に「沖縄説教塾」がスタートした。
2. 沖縄で説教を学ぶとは
苦難に満ちたこの沖縄の地に、福音が語られ、真の救いである主イエス・キリストを礼拝する民が起こされた。すなわち、教会が誕生したのである。その教会に問われている問いがある。それはいかに聖書の言葉を神の言葉として説教するか、である。そして、それを聴いた教会の兄弟姉妹がその説教で語られた御言葉を握り、この社会で、その現実のただ中で、御言葉の剣を握り、1週間を戦うのである。それ故、主日礼拝で語られる説教の言葉が、心に響かなければならない。その人の心に留まり、その人を生かす言葉として、その人を立ち上げなければならない。では、教会の兄弟姉妹が説教を聴いて心に蓄え、立ち上がる説教とはいかなる説教であるのか。そのことを深く考え、共に学ぶとき、それが「説教塾」の学びである。
説教を学びつつ、いや応なしに問われてくる問いがある。それは「私どもは今、この沖縄の地で説教している」という認識であり、祈りである。言い方を変えるならば、「聴衆黙想」である。つまり、聴衆である教会員の生活環境、歴史的背景、また、沖縄という地域性において、展開している差別的問題、沖縄人(ウチナーンチュ)としての痛みの問題を黙想しつつ、説教者は聴衆に先立って御言葉を読むのである。ある意味で、その痛みを感じていない説教者の言葉は、ともすると「心に響かない」のではないか、とさえ思えるのである。その痛みとは、琉球処分の痛み、第2次世界大戦の痛み、米国の統治下におかれた痛み、今現在も米軍基地集中という差別的痛み、世界的軍事大国の構造上の差別的枠の中で傷み続けている沖縄の民の現実を同じ思いを持って痛み、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」という説教者の「聴衆黙想」が問われている、そう語ってもいいのではないか。
沖縄で説教を学び、説教を語る者は、その深い心の痛みに寄り添い、説教を通して御言葉を心に深く届け、その御言葉で癒やしを経験し、その御言葉で現実の痛みに勝利していくという、御言葉体験、礼拝体験が大切であると考える。それ故、「説教塾」において、いかに御言葉を聴衆に届けるかを学んでいる。
説教学の第一人者である加藤常昭師は、聴衆に届く説教の言葉を「出来事の言葉」と語る。それは、説教の言葉が聴衆の心に届き、響くならば、その響いた聴衆に「出来事」を起こすというのである。つまり、その御言葉に応答し、信仰の一歩を歩み出すのである。それは、神の恵みへの応答であったり、悔い改めの応答や、信仰的な決断など、その人の人生に「出来事」が起こるのである。説教を通して御言葉が「出来事の言葉」として語られる。それが沖縄のリバイバルにつながると確信しているのである。
沖縄説教塾は月1回、安慶名バプテスト教会において例会を開催し、年に1回説教セミナーを開催し、研鑽(けんさん)を積んでいる。今、共に説教を学ぶ牧師、伝道師を募っている。
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