春の訪れを感じさせる2月下旬、小粒ながら多方面から話題になるであろう映画が公開される。タイトルは「サタデーナイト・チャーチ」。原題は “Saturday Church”。つまり「土曜日の教会」ということになる。わずか80分の作品ながら、全編を彩るカラフルな色合い、そしてダンスやパフォーマンスの数々。主人公の青年が体験するさまざまな葛藤、そしてそれらを発散させるために踊る主人公の姿に、どことなくかつて観た「フットルース」(1984年版)のケビン・ベーコンをほうふつとさせられた。
監督は、これがデビュー作となるデイモン・カーダシス。本作のきっかけは、彼の母親がニューヨークはブロンクスで聖公会の司祭をしており、彼自身がそこでボランティア活動をしたことによる。その教会では、社会的な弱者をサポートすべく、土曜日の夜に教会を開放して行う「サタデー・チャーチ」なるプログラムを常時活動として持っていた。路上生活者、特に貧困にあえぐ若者や、LGBT(性的少数者)に属する者たちが「サタデー・チャーチ」の主な参加者であった。カーダシスは、そんな彼らと触れ合い、語り合う中で、本作のアイデアを構築していったという。
主人公は、夢や願いは人一倍多くあるが少し内気な高校生ユリシーズ。彼は父親の死後、女性のように美しくなりたいという願望が、日に日に強くなってくることを自覚していた。学校では「女みたいなやつ」とからかわれ、なかばいじめの対象とすらなっていた。
父親の死後、母親は夜勤へ行かなければならなくなり、母方の伯母がユリシーズと8歳の弟の面倒を見るためにやってくる。この伯母が強烈なキリスト教信仰の持ち主で、家の中で暴君のように振る舞い始めるのであった。ユリシーズはある時、押さえられなくなった衝動から母親のハイヒールを履いてしまい、それを弟に見られ、伯母に告げ口されてしまう。彼はこれをきっかけに、夜の街をさまよい歩くこととなる。そして、トランスジェンダーのグループと出会うのである。
「サタデー・チャーチに行こうよ」
そう声を掛けられたユリシーズは、興味半分、怖さ半分で土曜の夜に開催されているという「教会」の扉をくぐるのだが――。
本作は、米国で最も有名な映画評サイトの一つである「ロッテン・トマト」で92パーセントの賛同を得たという。しかも全世界の映画祭ですでに10以上の賞を獲得している。繊細な青年の心情と、それをまったく理解できない旧態依然とした大人たちの確執の物語として観ることもできるし、ミュージカル要素が多分に含まれているため、葛藤やフラストレーションを体全体で発散するダンスムービーという観方もできる。しかし本作で最も重要なのは、LGBT問題にキリスト教界がどう向き合うべきかについて、決して唯一ではないにせよ、一つの選択肢としての「回答」を投げ掛けているという点である。
サタデー・チャーチという働きは、現在も全米で30近くの教会で実践されており、そこに集う人の9割が有色人種であるという(本作のパンフレットより)。実際にこの活動をホームページ(英語)に掲載している教会もある。
少し話がずれるが、この問題に新たな視点を与える出来事を提示したい。
2015年夏、筆者は日本の高校生たちと共にテネシー州メンフィスへ向かった。目的は市街地にある「国立公民権博物館」を見学するためである。ご存じの通り、そこは1950年代半ばから拡大していった公民権運動の指導者、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が暗殺されたモーテルであり、そこを博物館として作り変えた場所である。虐げられている人、マイノリティーであったアフリカ系米国人たちの苦難の歴史が展示され、さらにキング牧師を撃った銃や犯人の全身図などが忠実に再現されていた。私たちはこれらを見るためにやって来たのだが、この時気になったのが、メインコーナーの先に掲げられている複数の写真であった。
そこには、同じように偏見や不当な扱いを受けながら、その現状を是正するために立ち上がった人々の写真が掲げられていたのである。そこには、インド独立の原動力となったマハトマ・ガンジーや、世界の貧困問題に取り組んだU2のボノなどが並んでいた。そしてその中に、自身がゲイであることを告白し、同性愛者の権利獲得に尽力したといわれる政治家ハーベイ・ミルクの写真も掲げられていたのである。彼の人生は、ショーン・ペン主演で映画にもなっている。
私はこのことを博物館の職員(白人男性)に質問してみた。すると、以下のような答えが返ってきた。
「公民権は、今なお本来与えられるべき方々から剥奪されています。アフリカ系米国人の権利問題はもちろん継続して訴えますが、ある程度のめどは立っています。だから次はLGBT問題で苦しむ方々の公民権を確立することも視野に入れる必要があるのです」
つまり米国のリベラル陣営において、LGBT問題は「21世紀の公民権運動」と位置付けられているということであろう。
そういった視点で本作を観るとき、同じ「キリスト教界」であっても各教派、教会によってLGBTへの関わり方に違いがあることを理解する必要があるだろう。本作のモデルとなった教会(米国聖公会)のような在り方がある一方、映画に登場する伯母の発言は、保守的な福音派系教会の立場を代弁しているように思う。彼女は、家出していたユリシーズが「サタデー・チャーチ」で出会ったトランスジェンダーの年上の友人に付き添われて家に帰ってきたとき、こう言い放つ。
「病気のもとを家に入れないで!」
問題は伯母のLGBTへの無理解だけではない。もっと根本的に言うなら、彼女はLGBTの人々を「治療対象」と見なしているのだ。ユリシーズがヒールを履いていることを知り、そのことを叱責する場面でも、彼女は「まず祈りましょう!」と言い、LGBTの状態からおいっ子が「癒やされる」ことを願っている。ここにLGBTの人々が最も嫌う「視線」があるという。
その視線とは、彼らを「治療対象」と見ることである。よほど教条主義的な教会でなければ、LGBTであると告白した者たちを拒否することはないだろう。「私たちは受け入れます」と優しく手を伸ばすだろう。しかしその先に「正常な状態へ戻る」ことがセットされているとしたらどうだろうか。
例えば、4月19日から「ある少年の告白」(原題:Boy Erased)という映画が公開される。若干20歳でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたルーカス・ヘッジズの初主演映画だ。共にアカデミー賞受賞経験のあるニコール・キッドマンとラッセル・クロウも出演する。物語はバプテスト派牧師の長男が同性愛であることを告白し、それに激高した牧師の父親が「矯正キャンプ」に息子を送り込むという内容である。これが実話に基づいたストーリーだということを知り、心が重くなるのは私だけではないだろう。この作品では、おそらくもっとストレートに、LGBTを「治療対象」として扱うことへの批判が語られるのだろう。
ハリウッド映画界は、かつて奴隷制で人権を侵害され、その後も公民権を不当に侵されてきたアフリカ系米国人たちの苦難の歴史を映画化し、人々を啓蒙してきた。これに対してキリスト教界はもろ手を挙げて賛同してきたきらいがある。しかし果たして今回の問題に関してはどうだろうか。答え無き問の前に立たされている感は否めない。
米国はもはやこの問題からは逃げられない。2月13日付のピュー研究所のデータ(英語)によると、同性婚への抵抗感は新しい世代ほど軽減している。「ジェネレーションZ」(1990年代後半から2000年代に生まれた世代)に至っては、積極的な反対をしないという意味では、85パーセントが同性婚を認めるという結果になっている。
この流れを受けて、今後も「ある少年の告白」のような作品が作られ続けることだろう。そして、常に米国から少し遅れて日本に入ってくるのが文化的潮流であることを鑑みるなら、LGBT問題はやがて日本のキリスト教界にも大きな分岐点をもたらすことになると予想できる。そういった意味でも、本作はチェックすべき一作だといえる。特に若い世代が教会に通っている場合、これは避けては通れない問題である。牧師として、思春期の子を持つ親として、どうすべきか。
教会(主にクリスチャン)で連れ立って鑑賞し、その後、皆で話し合うには最適な一本であると思われる。
■ 映画「サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所」予告編
■ 映画「サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所」公式サイト
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