そういうわけで、訴える者たちがここに集まったとき、私は時を移さず、その翌日、裁判の席に着いて、その男を出廷させました。訴えた者たちは立ち上がりましたが、私が予期していたような犯罪についての訴えは何一つ申し立てませんでした。ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。(使徒25:17~19)
神に向かって信仰の目を向けて、この秋の日々も豊かに祝福してくださる神に心から期待しようではありませんか。
今日の箇所は、パウロを捕らえ、彼を裁いているローマの総督フェストの言葉です。パウロが訴えられて今日まで投獄されているのは、彼らの宗教のことで、争点の中心は、死んだはずのイエスが生きているかどうかということのようだ、と語りました。
私たちの信仰は、私たちの魂のど真ん中にどれだけイエスに対する信仰があるかどうか、それが今は本当に問われています。洗礼を受けて、日曜日に教会に行くからクリスチャンです、という形式的なものではなく、私の内側に本物の信仰があり、魂に響く本当の信仰が宿るよう整えられたいと思います。
1. イエスは生きているか死んだままか
パウロは、救い主キリストは死んだお方ではなく生きている、と主張して戦っていたのでした。人が死ねば、姿形はそのままのようでも、すでにそこに命はなく、何も成すことはできません。死んだままのイエスならば、何も起こらないし、どんな影響も生み出すこともできず、イエス・キリストの約束は反故になってしまいます。
パウロが語ったのは、死んだままのイエスではなくて、死からよみがえられ、今も生きているキリストです。キリストは生きておられて、今も温かい愛をもって私たちと向き合ってくださり、ご自身の力でさまざまな言葉を語り、働き、御業をなしてくださっており、この影響は今も送られ続けており、彼の約束は変わらないということでした。
フェストという総督は、キリスト信仰のことがよく分からず宗教音痴のような発言を繰り返していました。でも彼は、本当のキリスト教は、救い主として彼らが語っているイエス・キリストが死んだ人間なのか、それとも今も生きて働かれる救い主なのかがポイントであることを知性により見抜いていました。
あなた自身も、自分の信じているイエスは本当に生きておられるのかを真剣に問い掛ける者であってください。
2. 生きたイエスと生きた関係があるか
イエスは生きていると信じているはずなのに、まるでイエスが死んだかのような生き方をしていないでしょうか。「イエスは生きている」と言葉では告白していても、信じ方が形式的な部分だけで終わってしまい、命のこもらない、あたかも死者に対する取り扱いのようになっていないか、もう一度自分自身に問い直そうではありませんか。
主イエス・キリストが今も生きているならば、私たちに語り掛け、御手を動かして御業をなしてくださいます。イエスとの本当の関係を持ちましょう。イエスの約束は今も変わらず有効です。イエスが生きていると信じるならば、生きているイエスに向き合う信仰を持ちましょう。それをもう一度、自分に問い直したいと思います。
主は今も聖霊を送り、働き、生きておられます。見捨てたり、離れたり、私たちとの縁を切られることはないのです。であるならば、私たちは生きておられるイエスに、生きた信仰で向き合おうではありませんか。生きておられるイエスを礼拝し、心から喜んでいつもほめたたえましょう。
私たちの信仰が、形式的で理屈だけの信仰ではなく、生きたイエスと向き合っているか確認し、自分自身の信仰に命を吹き込んで、生きた信仰を持ってまいりましょう。
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