今年傘寿を迎えた私に74度目の8月15日が巡ってきました。
もうかなり年老いた二葉百合子が心を込めて歌う「岸壁の母」を、この原稿を書きながらユーチューブで聴きましたが、胸にこたえました。読者の中には戦後一世を風靡(ふうび)したこの哀愁の名曲をご存じない方もあるかもしれません。1950(昭和25)年、ソ連に抑留されていた日本の軍人たちが帰国を始めたときから、ナホトカからの船が舞鶴港に入るとのニュースを聞くたびに、今度こそは養子の独り息子に再会できるだろうと、岸壁に立ち続けた傷心の母のことを歌ったものです。
日本国民の半分は女性なのですから、「母は来ました 今日も来た この岸壁に 今日も来た とどかぬ願いと 知りながら もしやもしやに もしやもしやに ひかされて」で始まるこの歌を聴いて断腸の念に駆られない方は多くないでしょう。しかし、その中の何パーセントが、成人した自分の息子にまた同じような悲劇が遠からず起こるかもしれない、ということを自覚しておられるでしょうか。日本をまた戦争のできる「当たり前の、正常な」国にしたい、と公言してはばからない安倍晋三が自民党総裁に再選される可能性は大であり、そういう政党がなぜ総選挙で大勝するのでしょうか。総選挙の場合は有権者の半分は女性のはずです。
私は過去10年以上、「前事不忘、後事之師」を座右の銘として掲げています。先日もオランダの国会のあるハーグ市の教会で開かれた戦没者追悼の席に、日本人として家内ともう一人の日本人女性と出席を許されました。「許されました」と書くのは、太平洋戦争中の1942(昭和17)年2月、日本軍が当時オランダ領東インドと呼ばれていた現在のインドネシアに侵攻し、多くのオランダ人が犠牲になったからです。日本軍と戦って亡くなった戦死者だけでなく、婦女子まで強制的に抑留されて過酷な生活を強いられ、食料や衣料品の不足のために命を落としました。また、捕虜の中には日本に輸送されて、国際法に違反して強制労働させられた人もいました。さらに、抑留所から強制連行されて日本兵の性奴隷とされたオランダ系女性も100人近くになります。こういう歴史を現代の日本人の何パーセントが知っているでしょうか。しかし、27年前にオーストラリアからオランダに移住したばかりの時の私も、その事実を知りませんでした。
これは加害の歴史ですが、私たちは「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とか、「過去はあっさり水に流して」とかいうような人生観、世界観に引きずられることがしばしばあり、それは被害の歴史についてすら同様なのです。7年前の3月、フランスのルモンド紙に大江健三郎のインタビュー記事が掲載されました。「われわれは犠牲者たちに見つめられている」と題されていましたが、大江は広島、長崎の被爆者のことを語っていました。戦後の日本は大企業に引導されて、世界で最初の核エネルギーの被害者になった歴史を忘れて、原子力政策についての態度を決定することをうやむやにしてきた、という主張でした。東日本大震災、福島第1原発事故が発生してから約1週間後に掲載された記事でした。震災前、国内では50基以上の原発が稼働していました。日本はこんなものはただの1基も建設すべきではなかったのです。ところが、ほとぼりが冷めると、再稼働が言われ始め、今では9基が再稼働(うち1基は運転差し止め仮処分中)し、5基が新規制基準に適合、12基が再稼働を審査中という状況です(7月12日時点)。
この時期に行われる戦没者追悼の集いでは、「私たちが現在享受している平和と繁栄は多くの戦争犠牲者と生き残った人たちの戦後のたゆまざる努力によるものである」ということが、もう耳にタコができるくらいに繰り返されます。死んだ軍人や民間人の中には、「戦争に先立ってアジアを侵略せず、あの戦争を始めなかったら平和と繁栄は享受できなかったのか」「もういい加減、あの戦争をこのようにして正当化するのはやめてほしい」と、墓場の陰でつぶやいておられる人が多いのではないでしょうか。
1923(大正12)年の関東大震災の直後、無教会の伝道者・藤井武は、私たちの任務は復興ではない、創興である、つまり、これまでとはまったく違う新しい社会を起こすことである、と言いましたが、彼が敗戦の日まで存命していたら、同じことを言ったでしょう。「一億総懺悔(ざんげ)」などともっともらしいことを叫んで、あの戦争に突入した致命的な誤り、戦争の過程で犯した数々の罪を心底から反省して悔い改めることをせず、ひたすら日本経済の復興にまい進したツケが福島第1原発の悲劇として回ってきたのだ、と言えないでしょうか。藤井は関東大震災を神からの警告と受け止めました。
8月2日から5日まで、恒例の「ヨーロッパ・キリスト者の集い」が今年はスコットランドの首都エディンバラで開かれ、家内と共に出席しました。この催しには1992年以来ほとんど欠かさず出席しています。いつも7月末から8月初旬にかけて開かれます。しかし、会期中毎日開かれる早天祈祷会で広島や長崎のこと、8月15日のことが祈祷課題に挙げられたことはないのです。
数年前、この集いがフィンランドの首都ヘルシンキで開かれたとき、もう半世紀以上前にエルサレムのヘブライ大学で席を並べたフィンランド人の知人宅を訪ねました。開口一番、「君は広島生まれだったよね」と言われ、私の出生地まで覚えてくれていたことに感激しました。しかし、フィンランドでは毎年8月6日に日本の灯籠流しのような行事を行っているところがある、と告げられたときには息を飲みました。日本からは何千キロも離れたこの国の人たちが被爆者のことを追悼してくれているのに、その国で開かれている日本人クリスチャンの会合では誰も何とも思っていないということに、やりきれない気持ちになりました。
私たちは8月15日を「終戦記念日」と言い、「敗戦記念日」とは言いません。人情としては分かりますが、自分たちの負の歴史を正直に、誠実に正視する姿勢が欠けています。エディンバラで初めて出会った日本人から次のように打ち明けられました。
「戦前からの歴史を持つ教会に集う方々の中に、戦前に赴任していた牧師を『守る』ために、特にことが偶像礼拝の罪になると悔い改めを拒む方々がいる現実がありました。特にその牧師の遺族の方々などが、その牧師の威光が陰ることを恐れてかばおうとする傾向にあるようです」
こういう姿勢のまま、日本の教会が「罪人」の同胞に悔い改めを説くのだとしたら、それは偽善そのものではないでしょうか。
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村岡崇光(むらおか・たかみつ)
1938年広島市生まれ。東京教育大学(現筑波大学)英米文学科卒業、同大学大学院言語学科で修士号(聖書言語学)取得、その後エルサレムのヘブライ大学で博士号(Ph.D.)取得。英国のマンチェスター大学、オーストラリアのメルボルン大学、オランダのライデン大学で、ヘブライ語とその他の関連語学を33年にわたって教える。ライデン大学名誉教授、ヘブライ語アカデミー名誉会員、英国学士院バーキット・メダル受賞、日本聖書協会・聖書事業功労者。定年退職後は毎年最低5週間、太平洋戦争で日本の帝国主義の被害を受けた国々の神学校や大学において無報酬で専門科目を教える。その記録は『私のヴィア・ドロローサ:「大東亜戦争」の爪痕をアジアに訪ねて』(教文館、2014)として出版されている。