猛暑が続く日本列島の8月9日、今年も長崎「原爆の日」が巡ってきた。73年前の8月9日午前11時2分、米軍により一発の原子爆弾が投下された。長崎の街は一瞬のうちに破壊され、死者7万3884人、負傷者7万4909人という甚大な被害を被った。当時の長崎市の人口は約24万人。半数以上の市民が被爆し、老若男女が無念の爆死を遂げた。爆心地付近の建物は完全に燃え尽き、ローラーで押しつぶされたようながれきの中に黒焦げの無数の焼死体が転がっていたという。
昨年10月、この爆心地を訪れ、何とも言えない暗澹(あんたん)たる思いにさせられた。原爆資料館も見学し、二度とこのような非人道的な地獄絵図を繰り返してはならないと痛感した。
当時、爆心地の近くにあった長崎医科大学に勤めていた放射線医師・永井隆博士は、大学で被爆したが、どうにか一命を取り留めた。原爆投下から3日目、最愛の妻、緑さんは、自宅の台所で黒い塊となって発見された。永井博士は、焼けたバケツに緑さんの遺骨を拾って入れ、胸に抱いて墓へ向かった。辺りの住民は皆、死に絶えて、夕陽の照らす灰の上に黒い骨が点々と見えていたという。
後日、永井博士は、その後の心情を友人に次のように述懐している。
「ぼくの結婚生活は失敗だった」と打ち明けた。その理由を問われると「ぼくの失敗さ、夫として、ぼくは実に大きな過失を犯したのだ。妻はひと言も不平がましいことを言わなかったので、知らずに過ごしていたのだが、このごろ想い出してみるにつけ、さぞかし苦しかったろう、つらかったろう、悲しかったろう、さみしかったろう、むかついたろう・・・と、思い当たることが多いのだヨ。とにかく、ぼくはあの妻を死ぬ日まで、いじめ通しに、いじめていたのだもの」。「いじめていた?」の問いに「妻の犠牲的奉仕を要求したのだ。ぼくの野心をとげるために。ぼくの野心、それは学問上の仕事において、大学での地位において、社会的名誉において、いわゆる偉い人になろうという、くだらない野心だった」と答えた。(永井隆著『如己堂随筆』より)
長い年月、貧困と雑用に追いまくられながら頑張り通し、今ひと息という時に原子の火により、たちまち命を終えた奥様を偲び、「せめて一度ぐらい雲仙温泉へ遊びにつれていくか、一度ぐらいは芝居を見せたかった」と吐露されている。この率直な告白に、愛する者を一瞬に失った永井博士の無念さと亡き奥様への切ない愛が伝わってくる。
さらに、『如己堂随筆』の「薄らぎゆく原子爆弾の恐怖」の項では、原爆投下の日に目撃したことを次のように記している。
私はあの女性の生首を思い出す。――私の家の焼け跡の前の畑に、どこからかちぎれ飛んできたものか、首だけが落ちていた中年の女性。顔はそのままだったからよく見たが、町内の人ではなかった。道を歩いていた人間の首がパッとちぎれて空を飛ぶさまを思うと――あんぐり開いた口に金の入れ歯がのぞき、その間に黒髪が吹き込まれている――ありさまを思うと、身の毛がよだった。そんなむごい死にざまをとげた者が、あの一瞬に、このあたりに何万とあったのだ。
引用するのもはばかれるような壮絶な目撃証言だが、これが戦争の現実だ!
カトリック信者であった永井博士は、被爆しつつも、かろうじて生き残り、2畳一間きりの家「如己堂」(「己(おのれ)の如(ごと)く人を愛す」の意味)で療養しながら、残された2人の子どもたちに愛情を注ぎ、病床で「平和」を訴える多くの本を執筆した。そして、1951(昭和26)年5月1日、長崎大学病院で召された。享年43歳。残された2人の遺児・誠一さんと、茅乃さんも既に他界された。戦争体験者が次々に亡くなっていく現在、私たちは、永井博士の遺言に真剣に耳を傾けたい。
平和をことさらに壊そうとたくらむ人があるように見えますが、その人々を敵にまわして憎んではなりません。相手を憎む心が起こったら、もう自分も平和を願う権利を失ったものとなります。(『原子野録音』)
本当の平和をもたらすものは、ややこしい会議や思想ではなく、ごく単純な愛の力による。(『いとし子よ』)
戦争はおろかなことだ!戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけである!人間は戦争をするために生まれたのではなかった!戦争はこりごりだ!平和を!永久平和を!この叫びを私は広く伝えたかった。(『花咲く丘』)
長崎の原爆投下から73年、今、世界に戦争と戦争のうわさが充満している。米国の前大統領は「核なき世界」を訴えもてはやされたが、現大統領は「小さく使いやすい核」の開発を進めると公言した。仮に第3次世界大戦が起これば、核使用は必至であり、まさに人類滅亡の危機に直面する。今こそキリスト者は目を覚まして祈り、「平和をつくる者」「平和の君・キリストを伝える者」になりたい。
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)
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