虐待加害者は多くの場合、「これは指導であって虐待ではない」「しつけの一環だ」と言い訳するのが通例となっています。理由があれば、虐待行為もせざるを得ないと考えているということです。私たち大人は、「虐待は必要悪」という考えが、自分たちの中にも無意識の内にあることを認識しなければなりません。
連日、暑い日差しが日本中に降り注いでいます。その一方で、熱中症による悲しいニュースが毎日のように報じられています。先週には愛知県豊田市の小学1年の男子児童が、校外学習から帰った学校で意識を失い死亡したという悲しいニュースが届きました。豊田市では当日、35度以上が予想される「高温注意情報」も出されていましたが、報道によれば、37・3度にもなったと伝えられています。そんな中、校外学習を強行したことについて校長は「判断が甘かった」と語ったと伝えられています。
さて、熱中症といえば、駐車中の自動車の中に放置された赤ちゃんが熱中症で死亡するというニュースが毎年のように報じられます。この記事を読まれている方は、駐車中の車内に子どもを残すことが、子どもの命を脅かす深刻な虐待の一つであることはご存じのことと思います。
しかし、日本自動車連盟(JAF)が行なった「子どもの車内事故に関するアンケート調査」の結果によれば、「子どもを車内に放置したことがありますか」という質問に対して、4分の1を上回る28・2パーセントが「残したことがある」と答えています。理由としては、「子どもが寝ていたり、降りたくないというため仕方なく残した」「残しておいた方が安全だと判断した」「ちょっとのことだから面倒」などが上げられており、中には「地域では、普段から車に子どもが乗って待っているのが当たり前である」という答えまでありました。理由にならない理由が並んでいて驚きますが、その共通の背景にあるのは「無責任な判断」です。
先述の校長のコメントでも、このアンケート結果でも「判断した」というのがキーワードであることに気が付くと思います。まさに「無責任な判断」ということができます。連日のニュースやさまざまな注意喚起をはねのけてしまう「無責任な判断」は、ほとんどの場合、「思い込みの中で示される理由によって、通常はとてもできない判断を積極的に支持してしまうという現象」だと考えることができます。多くの場合、虐待は「無責任な判断」の積み重ねによって起こります。それは、多くの虐待が病院受診などによって表面化することでも明らかです。
「子どもは大人によって教育されなければならない」「子どもは大人に従わなくてはならない」「子どもをしつけるのは大人の責務だ」「指導の必要上、ある程度の体罰はやむを得ない」などということがまことしやかに語られています。しかしその一方で、他人に向けて「親なんだから無限の愛があるだろう」「あの子は大人の言うことを聞くいい子だ」などという考えが、私たちの内に巣くっていないでしょうか。
私はこれらを「安易な常識」と呼んでいます。耳障りが良く、自分を評するにも理想的であるからです。人々はこの「安易な常識」を振りかざし、「虐待をせざるを得ない状況」にある人々を追い込んでいきます。
ここまで考えたとき、私は、ある聖書の奇跡物語を思い出します。
一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。「主よ、息子を憐(あわ)れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」
イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」 そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。
イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ:17:14〜20)
現在、てんかんは脳の機能障害とされており、それを悪霊の仕業と考える人はあまりいないだろうと思います。そんな現代にあって、この聖書の記載を見たとき、悪霊とは一体何かを考えさせられます。周囲の人たちや弟子たちは、ある人が連れてきた「息子」の中に悪霊が巣くっていたと考えていたのでしょう。てんかんが癒やされることこそ、奇跡だと考えていたのでしょう。
てんかんの症状を見て「悪霊の仕業だ」と「安易な常識」を振りかざし、信仰が足りないから「治すことができない」と「無責任な判断」を下していた姿にイエスは、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と叱咤(しった)し、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば(中略)あなたがたにできないことは何もない」と激励してくださっているのだと思わされます。
私は、ひょっとして悪霊はこの子を取り囲む周囲の人々の中にいたのではないかと思うようになりました。周りの人が、その子が持つてんかんという障害を「神の業がこの人に現れるため」(ヨハネ9:3)のものであると信仰を持って理解し、少しの思いやりを持って彼ら家族を支えるために一歩を踏み出したからこそ、その子は癒やされ、さらに現代においては、てんかんを悪霊の仕業とする理解は退けられたのです。
もし、私たちが自分の中にあるからし種一粒ほどの信仰を持って、「無責任な判断」と「安易な常識」という悪霊にとらわれていた自分たちを改め、神の栄光を現す器として親子を見守ることができさえすれば、私たちの前に立ちはだかる「虐待」という大きな山さえも立ち退く。そう確信したいからこそ、私は力及ばずながらも「主よ、私の中の悪しき思いを追い出してください。悩み、苦しむ親と共に『子どもを真ん中に立たせる神の義』を求めさせてください」と祈りつつ歩んでいます。(続く)
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