2017年4月から始まった「拓成学院」。前回お伝えしたように、平日朝6時から20代前後の若者たちが15〜20人ほど集まり、熱心に学んでいる。彼らのユニークな学びを紹介するとともに、「21世紀の日本に必要とされる『神学校教育』とは何か」を2回に分けて大胆に提言をしてみたいと思う。
16年初頭、細江政人主任牧師が打ち出した「10年で10教会を開拓する」というビジョンを、神からのチャレンジとして受け止めたヒズコールチャーチ(名古屋市)は、協力牧師であるクリス・モア氏の発案で、従来の神学校・聖書学校とは異なるタイプの教育機関「拓成学院」を設立した。モア氏の言葉によると、「(教会)開拓に特化した、実践しながら学べる場」であり、「教会開拓のチームを育む場」である。
具体的には、16年10月から生徒を募集し、翌17年4月には20人の応募があったという。18年はさらに15人が入学して、総勢35人となった。その中には、他教会の信徒、海外からの留学生なども含まれている。
本学院の母体となっているのはヒズコールチャーチであることは明らか。しかしインタビューの中でモア氏はこう語っている。
「私たちは決して『ヒズコール聖書学院』とはしたくなかったんです。確かに私たちの教会から生まれた学校ですが、ヒズコールチャーチだけのために始めたのではありません。日本の諸教会が活性化され、開拓の機運が高められることを願いました」
「拓成」とは、開「拓」伝道を「成」功させるための学びを提供する教育機関、という意味だという。今までの「神学校」「聖書学校」は、将来牧師になる人材(個人)を養成することが目的であったり、信徒たちが教会内で仕えるための学びをしたりする場であった。しかしモア氏ははっきりと次のように語る。
「確かにそのような学びも大切でしょうが、教会を新たに開拓するという目的を大前提にするなら、それらはあまり必要ありません。拓成学院は、むしろ『開拓伝道』に特化したカリキュラムに専念しています」
大胆な発言だと思わされた。同時に、ここまで闊達に言い切れるモア氏には、迷いがなく、目指すべき焦点がはっきりと見据えられているという印象を私は抱いた。さらに彼はこう続けた。
「生徒たちは、4年かけて勉強します。卒業するときは卒業論文ではなく、教会開拓チームで働きを担うことが条件になります。そのゴールから遡り、3年生はインターンとして4年生の開拓をサポートし、2年生はチーム同士の連帯性を高めることを目指します。1年生の大きなテーマは、それぞれの年間テーマを掲げてそれを達成することです。卒業してからは、開拓した教会にコミットメントするとともに、本人が願えば、学んだビジネススキルを使って起業することも応援したいです」
従来の学びというと、どうしても神学の四分野(組織神学、聖書神学、歴史神学、実践神学)を網羅し、さらに高いレベルではギリシャ語やヘブライ語を学ぶことが求められてきた。かく語る私もこういった神学教育を通ってきた者の1人である。しかし彼らの観点からすると、それは牧師・伝道師の資格を個人的に得るためには必要かもしれないが、「チームで開拓する」ための最優先事項ではない。
これらに代わって、拓成学院で大事にしているのが「個人財務」と「ビジネス感覚」だという。例えば、教会を開拓する場合、直近で求められるのは、神学的な知識ではなく、どうやって会場費を支払うか、必要な備品をどのようにそろえていくか、一括購入かローンか、などの現実的な金銭感覚に直結することが多くなる。従来、こういった分野は「この世の考え方」としてキリスト教界は真面目に取り上げることを忌避する傾向があった。
確かに一人一人のクリスチャンは、神の前に皆が献身者であり、この世の富よりも神の働きを重要視することが求められる。それは間違っていない。しかし、現状の経済状態を破壊する過大な借金をしたり、お金を増やして教会経営を楽にしようと、今はやりのビットコインなどに手を出したりすることは、結果的に神への献身を阻んでしまうことになる。
だからモア氏は1年生からビジネススキルを学んでもらい、社会の常識や感覚をよりリアリティーある形で体得してもらえるような授業を考案したと語る。しかもそれをチーム単位で生かすことを目指していく。今回私が見せていただいた2講時目の授業「ビジネス」は、この系譜である。またモア氏は、インタビューの後半でこんな話をしてくれた。
「拓成学院が始まる前は、生徒たちにどんなことをしてもらおうかと、彼らの日常に新しいものを積み上げることばかりを考えていました。でもいざ開始してみると、何かを積み上げるのではなく、むしろ彼らの内面を丸裸にして、神様の取り扱いを受ける機会を提供することになりました」
「ビジネス」と並んで拓成学院が取り組んでいるのが「人格形成」という分野である。どんなに能力があり、スキル向上ができたとしても、それをどのように用いるかは最終的に各々のパーソナリティーに帰することになる。だから人格を神様に取り扱っていただくことこそ、「チームで開拓する」ためには必要なこととなる。「内面を丸裸にする」ことは、このような意味において避けては通れないものだ、とモア氏は語る。
昨年から始まった学びの場に、今年は15人が加えられた。彼らは皆、前年から学びを始めた「先輩たち」の活動を教会内外で見ており、自分たちも学びたいと願った者たちだという。そして驚くべきことに、15人のうち14人が未信者家庭から救われた者で、しかも信仰年は若い。
細江氏は、拓成学院の働きを通して教会内に起こった変化を次のように語ってくれた。
「今までとは異なり、人を救いに導くということに使命を感じる(キリスト教界用語では「重荷を感じる」)人が多く生まれてきています。拓成学院ができたことで、自分たちが責任を持って新しく教会に来られた方を神様の元へ導くんだという意識が高まってきたように思います」
一見、いいことばかりのような拓成学院にも課題は存在する。次回はそれを取り上げるとともに、日本の神学教育について、私の視点から幾つか提案してみたいと思う。(続く)
■「拓成学院」が日本の福音宣教へ示すもの:(1)(2)(3)
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