それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。・・・イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(マタイ15:21~27)
今日開きましたマタイ15章、カナン人の女の信仰から、私たちも神からの豊かな恵みを頂き損ねないよう、学びましょう。イエスは、ツロとシドンの地方、つまり異邦人の地に行かれました。そこに1人のカナン人の女が現れました。他の箇所にはギリシャ人とも書かれていますので(マルコ7:26)、ユダヤ人にとっては、恵みを受けることのできない、まったくの異邦人です。
その彼女が、イエスに「主よ、ダビデの子よ」と呼び掛け、悪霊に憑かれた娘の癒やしを求めたのです。つまり、異邦人の女が、イエスをメシアと認めて、奇跡を行ってくださるよう求めているのです。しかし、イエスは沈黙し無視しておられました。
1. 思い通り事が運ばなくても離れない
この時、このカナン人の女が求めていたのは、私たちが想像するように、すぐに行って癒やしてあげようと言ってもらうことだったでしょう。でもイエスは、彼女が期待したのとは大違い、お声1つ掛けられません。
弟子たちは、声を掛けてその女を帰すようにと、イエスに願いますが、イエスは「イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」、つまり、イエスはイスラエル人のメシアとして、イスラエルを祝福するために来たのであって、異邦人のあなたの恵みなんて持ってないと言われたのです。
しかし、彼女は自分の予想と違っても、イエスから離れなかったのが素晴らしい。私たちの都合良く物事が運ばないからといって、神の恵みを受け取り損なわないようにしましょう。
2. つまらない感情に陥らない
彼女は、イエスの言葉に対し、私はどうせ異邦人、私は愛されてないなどと、つまらない、ひねくれた感情に陥らなかったから感謝です。私たちは、自分が受け止めてもらえないとき、差別された、のけ者にされた、だから孤独だというような感情に陥りがちです。私だけが奇跡を受けないなど、つまらない感情に陥ると恵みは受け取れません。
3. イエスに認められる賢さを持つ
子どもたちのパンを取って(イスラエル人のために用意されているもの)、小犬(異邦人)に投げてやるのは良くない。このイエスの言葉は、ある聖書学者たちの研究によると、本当に冷たい言葉だといいます。しかし、彼女は立派でした。小犬で結構です。パンくずでいいので私に下さいと、どこまでも神の前にへりくだったのです。イエスはその信仰をほめられ、願い通りになるようにと言われ、その時、娘は癒やされました。変な賢さが神の恵みを妨げる敏感さになるなら、むしろ鈍感でありたいのです。
神の恵みはテーブルから落ちるパンくずであろうと、私の人生には、有り余る恵みです。私たちは、誰からか言われた、嫌な言葉ばかり覚えていて、心に刻みつけ、その人を嫌ったり、批判したりします。人の言葉に敏感にならず、むしろ鈍感でありましょう。聖書の中には、恵みの言葉があふれていますから、神の癒やしの言葉を頂きましょう。
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