イスラエル建国70年を記念したセミナー「ホロコーストと建国・日本・これから」が10日、お茶の水クリスチャン・センター(OCC、東京都千代田区)で開催された。講師は、イスラエル公認ジャーナリストの石堂ゆみさん。セミナーでは、聖書に記されているイエス・キリストの時代から、現代までの約2千年間にわたるユダヤ人の歴史を概観。参加者は、ユダヤ人と神の壮絶な関係から学びつつ、クリスチャンとして今の時代にどのように生きるべきかを考えた。
石堂さんは約30年前、エルサレムで看護師として働いていたときにクリスチャンとなった。その後、米ニューヨークで看護師として働きながら、シオン聖書学院で学び、聖書学の修士号を取得。日本への使命を感じて帰国してからは、キリスト教のイスラエル支援団体「ブリッジ・フォー・ピース」(BFP)の日本支部で7年余り活動し、全国各地で講演してきた。
その後、2008年から母教会の加古川バプテスト教会から派遣されてイスラエルへ。現在はエルサレムから、イスラエルを中心とした中東と世界のニュースを「オリーブ山便り」で配信している。日本人クリスチャンとしては唯一のイスラエル政府公認ジャーナリストであり、同国政府公認ガイド、ヤドバシェム(ホロコースト記念館)公認ガイドの資格も持っている。
セミナーは当初、OCC内の別の会場で開催を予定していたが参加希望者が多く、OCC8階のチャペルに会場を移して開催された。印刷するとA4用紙14ページにもわたる年表を使い、イスラエルの近代史を「時代のジェットコースター」(石堂さん)に乗ったように解説した。
「古墳時代」から根付く反ユダヤ主義
ユダヤ人の歴史を一言で表現すると、それは迫害の歴史。初代のキリスト教もローマ帝国が公認するまでは激しい迫害を経験したが、392年には国教化される。そして、ローマ帝国が東西に分裂するころには、すでに欧州各地に離散していたユダヤ人たちは、イエス・キリストを十字架に付けた「神に呪われた民」と見なされ、差別の対象となった。石堂さんは、当時日本はまだ古墳時代だったことに言及し、反ユダヤ主義が非常に古い時代から根付くものであることを説明した。
一方、ポーランドでは1264年、ユダヤ人の保護を目的とする法律が公布される(カリシュ法)。これにより、ユダヤ人が欧州全体からポーランドに集まるようになる。14世紀に入ると、黒死病(ペスト)が大流行し、実に欧州の人口の3分の1が亡くなった。しかし、ユダヤ人の多かったポーランドでは犠牲者が少なかった。ユダヤ人が毒をまいたといううわさが広がるなどし、各地でユダヤ人虐殺が発生。石堂さんは、初期の迫害は「神学的反ユダヤ主義」によるものだったが、この時代には「人種差別的反ユダヤ主義」になったと言う。
その後、欧州各国でユダヤ人追放令が出され、ポーランドにはさらにユダヤ人が集まってくる。また各地に残ったユダヤ人は、ユダヤ人だけの村で過ごすことを強いられるなどするが、その中でも強かにユダヤ文化を花開かせていく。
マルティン・ルターと反ユダヤ主義
1517年、ドイツでマルティン・ルターによる宗教改革が始まる。石堂さんによると、ルターは当初、次のような言葉を残しており、ユダヤ人に対してそれほど敵対ではなかった。
われわれはあくまで部外者であって、ユダヤ人こそが主と血のつながった親戚やいとこであり、兄弟なのである。
もしわれわれが真に彼らを救いたいのであれば、カトリック教会法ではなく、クリスチャンの愛という掟によって、導かねばならない。彼らを心から受け入れ、われわれと共に取り引きし、働くことを許さなければならない。
しかし、なかなか改宗しないユダヤ人にしびれを切らしてか、晩年には『ユダヤ人と彼らのうそについて』という著書を出版し、シナゴーグ(ユダヤ人の礼拝所)を焼き払ったり、従わなければ処刑すべきだと主張したり、ユダヤ人の撲滅まで示唆したりした。
こうしたルターに見られる反ユダヤ主義的な思想が、フランス革命により人権宣言(1789年)が出されるまでの約270年にわたって、欧州内を支配した。人権宣言後は、ロスチャイルド家など、裕福なユダヤ人も現れてくる。また、ポーランドでは超正統派ユダヤ人が勃興する。
ホロコースト前夜
1914年、最初の近代戦争といわれ、推計で1700万人余りが犠牲になった第1次世界大戦(〜18年)が始まる。敗戦したドイツは、ベルサイユ条約で戦争の全責任を負わされ、多額の賠償金を科される。さらに世界恐慌(29年)が襲い混迷を極める中、結成時には支持率わずか3パーセントだったナチスが急進。ついに33年、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相となる。
ヒトラーは反ユダヤ主義を掲げていたが、初めからユダヤ人の虐殺を主張したわけではなかった。最初はユダヤ人の国外追放を促すキャンペーンを行った。当時は、子どもたちの間で「ユダヤ人追い出せゲーム」なるものもあり、徹底した反ユダヤ主義の文化が広がっていった。石堂さんは、これまでの神学的、人種差別的反ユダヤ主義に加え、ナチスは政治的、経済的反ユダヤ主義をもたらしたと指摘する。
ヒトラーの首相就任から本格的な虐殺までの間には約5年の期間がある。当時ユダヤ人はドイツ社会でも高い身分の人が多く、中には大統領の主治医もいた。ドイツ国民としてのアイデンティティーを持つユダヤ人も多く、それらが国外避難の決断を遅らせた一因ともなった。また、国際社会ではユダヤ人難民をめぐる話し合いが行われたが(エビアン会議)、受け入れを表明したのは中米の小国2カ国だけと失敗に終わる。
ユダヤ人に対する虐殺は、1938年に起こった「クリスタルナハト(水晶の夜)」がきっかけで本格化する。ポーランド系ユダヤ人の青年が、ドイツ政府の非人道的な反ユダヤ政策に抗議するため、ドイツ大使館員を銃殺した事件をきっかけに起こった暴動だ。警察は傍観するだけで暴動を取り締まることなく、一夜で100人余りのユダヤ人が殺害された。
ワルシャワ・ゲットー
39年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まる。ポーランドの領土のほとんどは、秘密議定書を結んでいたドイツとソ連によって分割統治される。ドイツは西側部分を占領したが、その中でもドイツに近い部分を本土に併合。残りはポーランド総督府を立てて統治した。ユダヤ人は総督府に逃げていくが、ナチスはユダヤ居住区「ゲットー」を設け、さらにその中にユダヤ人を追い込んでいく。
ポーランドの首都ワルシャワには40年11月、ナチス占領下の欧州で最大とされる「ワルシャワ・ゲットー」が造られた。当時のワルシャワは人口の約3分の1がユダヤ人だったが、それをわずか約3パーセントの面積しかないゲットーに押しやった。出入りは禁止され、密集した生活環境と極端な食料不足により、伝染病の流行や飢餓で何十万もの人が亡くなった。しかし、そのような環境の中でも劇場が存在するなど、文化活動も行われていたという。ユダヤ人にとって「生きる」とは、ただ自分だけが生物的に生きるのではなく、他者と共に文化的な一面を伴って生きることだったのだ。また、自分が死ぬ運命にあることを知りながらも、将来のユダヤ社会のために貢献する道を選んだ人々もいた。石堂さんは、こうしたユダヤ人の姿に感銘を受けたという。
ワルシャワ・ゲットーでは42年7月から、強制収容所への移送が始まる。数カ月で30万人近くが、ガス室で殺されることになる強制収容所へ移された。ゲットーには6万人ほどが残ったが、当時24歳のモルデハイ・アニエレビッツが中心となり蜂起。ドイツ軍に必死に抵抗するが、43年5月には鎮圧される。人々は戦闘で死んだり、捕虜とさせられたり、強制収容所に送られたりして、ワルシャワ・ゲットーは完全に解体された。
アニエレビッツはゲットー内で戦死するが、最後には「私は死ぬ。だけどユダヤ人は死なない。少なくとも、ユダヤ人が立ち上がった姿を見た。ユダヤ人が誇りを持って立ち上がった。それを見ただけで私は満足だ」と言い残していったという。(続く)