聖書の中でイエスの天敵と言えば、律法学者とパリサイ人(ファリサイ派)だ。特に律法学者とは事あるごとに対立し、そのやりとりが詳細に新約聖書に記されている。
イエスと彼らの間の最も根源的な齟齬(そご)は何だったのか。それはイエスが彼らを「白く塗った墓」と表現したことに集約される。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚(けが)れで満ちている。(マタイ23:27)
彼らが大切に考えていたのは律法であり、神殿である。イエスはこれらを決して否定していない。しかし律法「主義」、神殿「崇拝」を批判する。それらは形式や表面を取り繕うことに終始する傾向を生み出し、逆に律法や神殿に込められた「本質」を見失わせることにつながるからである。
その欺瞞(ぎまん)性が、最終的にイエス・キリストを十字架に付けたことを考えるなら、まさにイエスはこの世の「イズム」と欺瞞によって殺されたということができる(もちろんそのような罪の縄目から人間を解放されたのもイエスであるが)。
第70回カンヌ映画祭で最高賞「パルムドール」を受賞した「ザ・スクエア 思いやりの聖域」(4月28日公開)は、そんなイエスと律法学者・パリサイ人とのやりとりが、今なお終わっていないことを示す社会派コメディーである。
第90回アカデミー賞では、外国語映画賞にノミネートされたものの、残念ながら受賞は逃してしまった。しかしだからと言って、そのさえわたるアイロニカルな視点が鈍ることはない。
本作品にはモチーフとなった実際の出来事がある。2015年に本作の監督であるリューベン・オストルンドが、スウェーデンのデザイン美術館でアート展「ザ・スクエア」を開催した。それは地上に正方形を描き、美術館に訪れた客に対し、次のような文言を投げ駆けるというものだった。
“ザ・スクエア”は<信頼と思いやりの聖域>です。この中では誰もが平等の権利と義務を持っています。この中にいる人が困っていたら、それが誰であれ、あなたはその人の手助けをしなくてはなりません。
ここには2つのアイロニカルな視点がある。
1つは、こういった「特殊ルール」を決めなければ、人間が生来の性質として抱いていたはずの相手へのいたわりや優しさに気付くことができないという「人間性の限界」を示すこと。
もう1つは、現実世界にはこのようなスクエア(正方形)空間は存在しないため、スクエア以外の場所で人間がいくら他人に無関心であったとしても、誰も糾弾されないのが「現実社会」であることを示すこと。
このアート展は好評で、多くの人が訪れ、自らの醜い本質とそれを曖昧にする社会の在り方に気付かされたという。
同じ効果を狙って、さらに現代の欧州が抱える社会問題(貧富の差、民族的分断、SNS社会)にまで拡大して描いているのが本作である。
主人公は現代美術館のキュレーター(学芸員)。洗練されたファッションと高級車、高級アパートを持ち、愛する娘2人と暮らしている。いわゆる上流階級の人間である。彼は美術館の管理と運営を担っているため、マスコミなどにも時々取り上げられる存在だ。しかし物語は彼の二面性、言い換えるなら欺瞞性を鋭く暴いていく。
表向きには芸術の崇高な精神を語るが、ちょっと気を許すと「美術館にとって一番の課題は?」という質問に「お金かな」と本音がぽろり。インタビュアーをあきれさせる。
また、スクエア空間を美術館に設置することで、現代人が他者に対していかに無関心であるかを指摘し、格差社会の不条理を訴えるという崇高な理念を体現しようとする。しかしその一方で人々の耳目を集めるために、あえてSNSで人々を刺激してネット炎上をあおる作戦に出るが、まったく良心の呵責(かしゃく)を覚えていない。
彼は、ひょんなことから携帯電話と財布をスリに盗まれてしまう。GPS機能で携帯の在りかを探ると、どうも貧民街のどこかにあることが判明する。怒りに駆られた彼は、該当のアパート全戸に「お前は盗人だ!」と威嚇するチラシを配布する。何とも子どもじみた行為であるが、これが思わぬ事態を生み出してしまう。
秀逸なのは、美術館の会員であり、人々の「崇高な理念」の体現としての芸術に理解を示す(そぶりを見せている)セレブたちが一堂に会するシーン。そこに「ミスター・エイプ」というパフォーマンスで名高いアーティストがやって来る。彼は猿の真似をして人々の間を闊歩(かっぽ)し、座って会食しようとしているセレブたちを挑発する。そのやり方がかなり激しく、観ているこちらもセレブ同様に、どこまでが芸術(パフォーマンス)でどこからが現実なのか、その境界線が曖昧になる感覚に襲われる。
このように映画は、お高く留まって理想を説き、その「崇高な理念」を体現しようとしている人々がいかに二面性を持ち、欺瞞に満ちているかを鋭くえぐっていく。それは同時に観客である私たちにも「あなたはどうか」と訴え掛けてくる。
まさに、新約聖書のイエスと律法学者・パリサイ人とのやりとりを見ているようである。本作では、自分たちとは異なる世界に住む人々を見下げながらも表面的には笑顔で握手を求めるような欺瞞性を暴き出していく。本来はその理念と行動が一体不可分であったはずなのに、いつしか行動がなえていき、欺瞞性に満ちた理念が鎧(よろい)のように理念の表面を堅くさせていく。一旦その理念を手にした者は、その心でどんなことを思っていようとも、それを暴かれることはない。逆に本音と建て前を乖離(かいり)させた方が、「形骸化された行動」はより「崇高な理念」を体現する存在へと昇華していく。
イエスが闘い、犠牲となったのは、この「崇高な理念」としての律法主義であり、「形骸化した行動」としての神殿(崇拝)主義であった。彼は理念の本質を取り戻すことを訴え、それが行動によって示されることを詳(つまび)らかにした。それが次の言葉に集約されている。
わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)
映画は後半に、自らの欺瞞性に気付いた主人公が自らの生き方を正そうと奔走する姿が描かれる。ごみだめのような中をはいつくばり、高級なスーツを雨と泥で台無しにしながら、崇高な理念と行動が一致した世界をつかみたいと願い、必死にあるものを探し求める。果たして彼は欺瞞性を捨て去ることができたのか――。
ぜひ映画をご覧になって確かめてもらいたい。本作は単純な感動や興奮を与えてくれる類いの作品ではない。むしろ「毒とユーモアに満ちた真実」をいきなり押し付けられるような感覚を覚えることになろう。しかし、一見の価値ありの傑作である。
■ 映画「ザ・スクエア」予告編
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