ある日、私のお気に入りの靴がなくなり、代わりに、超オンボロで見るも無残な靴が置かれていました。おそらく、「もうこれ以上履くことはできない!」というときに私の靴を見つけて、物々交換して去っていったのではないかと思います。
ショックでした。お気に入りの靴がなくなったショックではなく、何者かが住居不法侵入して、承諾した覚えのない理不尽な物々交換を決行したことに対するショックです。呆然と立ち尽くしながら、イエス様が思い浮かびました。イエス様もまた、承諾した覚えのない理不尽な物々交換を決行してくださったことに気付き、感謝しました。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(Ⅱコリント8:9)
イエス様がしてくださった物々交換は、イエス様が持っておられた富と私たちの貧しさを交換してくださったのです。
キリスト教一般に、「清貧」を美徳と考える傾向があります。主が私たちを低くされ、貧しくされ、砕かれたときには、そこに甘んじ、感謝しながら神を仰ぐことは大切ですが、主が祝福しようとされているのに、わざわざ貧しくなろうとする必要はありません。
聖書は次のように語ります。
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖(あがな)い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」(ガラテヤ3:13、14)
キリストは、十字架で私たちののろいを身代わりに引き受けてくださいました。そして、代わりに、アブラハムの祝福を与えてくださったのです。
アブラハムは、「祝福の基」です。アブラハムが受けた祝福は、自らを富まし、大富豪にするというものではありませんでした。結果として豊かになりましたが、アブラハムの祝福は、アブラハムを通して全世界が祝福されるための祝福で、アブラハムは祝福の通路だったのです。
神が私たちを低くされる理由は、本当の意味で祝福されるためです。祝福されることで高ぶったり、自分だけが祝福を享受したりするのではなく、低くされ、貧しくされた人の気持ちを知って、人々に祝福を分かち合う人になれるためです。清貧にも感謝し、アブラハムの祝福にも感謝です。
主は、超理不尽と思えるような物々交換をし、信じる私たちを豊かに祝福してくださいました。仮に理不尽であったとしても、主から与えられた祝福を分かち合い、物々交換をしていきたいものです。
私のお気に入りの靴と、超オンボロの靴を物々交換させてもらったことで、主の恵みを思い出せました。主の恵みに感謝致します。
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