1月26日より全国で公開されるキャスリン・ビグロー監督の新作「デトロイト」を一足先に試写会で鑑賞した。ビグロー監督といえば、2009年にアカデミー作品賞を「ハート・ロッカー」で受賞し、2013年にはオサマ・ビンラディン暗殺計画の裏側を描いて話題となった「ゼロ・ダーク・サーティ」を世に送り出した社会派女性監督である。
そのビグロー監督が今回扱った題材は、1967年7月23日にデトロイトで勃発した一連の暴動とその後に起こった「アルジェ・モーテル事件」。その顛末(てんまつ)を事件の当事者の証言から再現した社会派ドラマが本作である。しかし、単なる「歴史的事件」として描かれてはいない。いわれなき暴力と不条理な世界像を、あくまでも体験者の目線で描き切っている。本作は60年代の米国にとどまらず、現トランプ政権下での人種間差別の高まりに対する明確な警鐘ともなっている。
後に「デトロイト暴動」として事件化される出来事は、不法営業していた黒人クラブをデトロイト市警が摘発したことに始まる。黒人たちは、今までの不当な扱いに反発を募らせていたため、これをきっかけに暴徒化する。警察だけで解決できないことを悟ったミシガン州知事は、州兵と軍隊を市に投入することを決断し、市内に戒厳令を出す。このような背景から、「アルジェ・モーテル事件」は引き起こされてしまった。
暴動の3日目、暴動地域から少し離れたところにあるモーテル「アルジェ」に黒人の若者たちが宿泊していた。彼らの中の1人が、面白半分におもちゃの銃(陸上競技用のスタートピストル)を窓から差し出し、警備に当たる白人警官隊へ向けて数発撃った(もちろん音しかしない)ことから事態は急変する。
警官と州兵は、狙撃手がアルジェ・モーテルから銃を乱射したと瞬時に断定し、一斉に踏み込み、宿泊していた黒人たち(彼らと一緒だった白人女性2人も)を検挙する。警官たちは、犯人を割り出そうと「尋問」を開始する。しかしそれは、丸腰の相手に対して銃をちらつかせ、半ばリンチのように体を痛めつける「死のゲーム」に他ならなかった――。
60年代の黒人暴動は、その根源的要因として「人種差別」があるのは周知のことである。公民権運動が高まりを見せ、黒人たちが次々と権利(公民権)を勝ち取っていく一方、白人たちの中には、怒りを募らせる人々もいた。後者の代表が大都市を警護する白人警官たちだった。
特にデトロイト市警の場合、全警官の95パーセントが白人であったため、その怒りはそのまま黒人たちへ向けられた。職務質問と称して彼らを呼び止め、不当に尋問し、逮捕拘留することなど日常茶飯事で、時には警棒や銃器で一方的に暴力をふるい、死に至らしめることもあったほどである。しかし、それで警官が処罰されることはほとんどなかった。すべて職務上の「不幸な事故」として処理されたからである。
「死のゲーム」の犠牲となって、1人また1人と尋問現場から姿を消していく黒人たち。その緊張がマックスに達したとき、思いもよらない展開がそこにいるすべての人間をのみ込んでいくのだった――。
本作を端的に言い表すなら、「不条理に満ちた世界で体験した絶望」ということだろう。製作者側がリアリティーを追求した結果、サスペンスとホラーが融合したと言ってもいいほどの緊張感が全編(2時間22分)に漂っている。いわれなき嫌疑をかけられ、暴力を振るわれ、銃で脅される恐怖。それを行っているのが正義を遂行すべき警官や州兵であるという絶望的な状況。どこからも助けは来ず、目の前で友人が次々と「殺されて」いくのだから、彼らに一体何ができるというのだろう。
事件から50年目の今年、本作は、この地獄絵図から奇跡的に生還した人々をアドバイザーとして製作されている。黒人がしばしば引き起こす「暴動」がなぜ生まれてしまったのか、またこのような差別がどうしてなくならないかについて、ドキュメンタリータッチに徹することで、不条理と絶望に満ちた「現実」を観客に突きつけている。
しかし同時に、どん底に突き落とされた後に仄(ほの)かに立ち現れる「希望の萌芽」をもちゃんと描こうとしている。彼らが遭遇した「不条理」は事実だが、その彼らもその体験を通り越して生き続けなければならなかったからである。
詳しく書くとネタバレになるのでここでは割愛するが、筆者が見いだしたキーワードは「ゴスペル」である。本作は、ゴスペルが好きで実際に教会やカルチャーセンターで歌っている方にこそ見てもらいたいと願う。なぜなら、ここにこそ「ゴスペル」が生み出された本質が描き出されているからである。これをしっかりと見て、理解した後に再び歌うなら、きっとそこに深まりを感じるだろう。それくらい心を揺さぶられるラストとなっている。
「死のゲーム」に晒されているときに、白人警官に強要されて歌わされる「賛美歌」と、すべての事件が明るみに出た後で歌われる「ゴスペル」を対比するなら、奴隷として新大陸へ連れて来られて以来、黒人たちが置かれてきた世界がどれほど苦悩に満ちたものであったかを深く理解することができるだろう。
それほどまでにこの作品は、黒人たちの苦難の歴史を見事に象徴させている。
ビグロー監督は、映画のラストにどうしてもこのゴスペルを使いたくて、バークリー音楽大学のデニス・モンゴメリー教授に、地元教会の聖歌隊(クワイア)を指揮してもらいたいと依頼した。そこで両者は作品を試写し、語り合ったという。モンゴメリー教授は雑誌のインタビューでこう語っている。
「この映画は多くの暴力で満ちている。しかし、この映画を見て怒りを抱くことだけではないはずだ。(中略)ラストのシーンこそ、この映画の本質を表しているんだ」(出典:米ボストン・グローブ誌2017年8月9日号)
ビグロー監督がモンゴメリー教授に依頼したのは、ジェームズ・クリーヴランドの「ピース・ビー・スティル(Peace Be Still)」だった。これは、聖書のマルコによる福音書4章39節が歌われている。
「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった」
見終わって、本作のテーマがこの聖書の言葉に集約されていたことに気付かされた。2時間以上にわたって目を覆うような暴力、不条理、理不尽の数々が展開する本作。胃がキリキリと痛むような鑑賞を強いる本作。しかし、本当に私たちが目を向けるべきは、過去の悲惨な歴史でもなく、今なお続く人種差別の現状でもない。それらを踏まえながらも、当事者たちがこの事件後半世紀を生きてきた、という事実である。
それを象徴する出来事が、この映画から生まれている。事件の当事者の1人で、ザ・ドラマティックスのリードボーカルだったラリー・リード本人が、ラリー役を演じる俳優(兼シンガー)アルジー・スミスとコラボし、50年を振り返った楽曲(幅広い意味でのゴスペル)を提供していることである。こちらがその動画。
デトロイト市街は、今なおこの暴動発生時の傷跡が残っていると聞く。そして、ラストベルトと呼ばれる低所得者層が住む地域となり、昨年の大統領選挙では大きな浮動票となってトランプ大統領誕生に寄与したといわれている。
本作は多様な側面から語り合うに足る傑作である。ぜひチェックして、劇場でこの感動を味わってもらいたい一作である。
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