日本の社会福祉事業の「レジェンド」である阿部志郎氏(91)。戦後間もなく横須賀基督教社会館の館長を32歳で引き継ぎ、その後50年にわたって地域福祉に貢献してきた。戦後の社会福祉の先駆者として、その功績は計り知れない。そして、今なお同館会長として利用者に寄り添い続ける阿部氏に話を聞いた。
戦争体験
今一番気になるのは北朝鮮の人たちの姿です。テレビで、北朝鮮の軍隊が行進する様子が放映されますが、あの行進はナチス・ドイツのスタイル。おそらく500メートル歩いたらヘトヘトになるはずで、しかも行進をしている兵隊は無表情。私はそこに自分の姿を見ます。そこで何が問題かというと、考えない、迷わない、疑わない、不安を持たない、ただ命令されるままに行動することです。それが怖い。私もそうでした。
私は戦争っ子で、1926(昭和元)年に生まれ、小学校に入る時に満州事変(31年)が起き、日中戦争(37年~)、太平洋戦争(41年~)と15年間、20歳になるまで戦争の中で暮らしてきました。中学2年で鉄砲を担ぎ、人を殺す訓練を受けてきた。19歳で兵役検査に合格し、このまま学徒動員で招集されるならと、士官試験を受けて軍隊に入りました。
ある時、空襲で焼夷(しょうい)弾が10メートルくらい先にパッパッと落ちてきたことがあり、今思えば怖いのですが、その時は逃げることで精いっぱいで恐怖すら感じなかった。貨物列車の石炭の上にいて、東京から岡山まで真っ黒になりながら行ったこともありました。
当時、民間では食べ物がなく、軍隊に入ると食べ物には困らないと言われていました。このことは嘘(うそ)で、馬の飼料となるコーリャン米やニラの塩ゆでばかりで、今でもニラはどうしても食べることができないんですね。終戦は、豊橋の士官学校にいる時に迎えました。玉音放送を聞いて戦友たちは号泣してましたが、自分はうれしくて仕方ありませんでした。
自由とは「逃げること」ではなく「向かうこと」
その晩、町に明かりがともりました。それまでは灯火管制が敷かれ、明かりをつけると怒られた。この日の夜の町は本当にきれいで感動的でした。これでやっと戦争が終わった、自由になったと。それまでは軍服を着て町に出ると、常に憲兵に監視されていたのですが、そこから解放されることになりました。何をしようと、どこに行こうと自由で、これからは自由を満喫しようと。
ところが、今まで何をするかは、命令によってすべて行動してきたので、自由になっても目標がない。私が受けた教育は、「兵隊はハガキ1枚で何人でも集められるが、馬は買わなければならない。馬を大切にしろ。人間は消耗品だ」というものでした。また、1億総玉砕、国体保持ということで、「国民1億人全員が米国と戦って死ね」と言われてきたのです。
当時、大人は生活があるから簡単に変われましたが、若者はそうはいかない。それで「虚脱状態」という言葉がはやりました。つまり、「ひきこもり」です。僕も半年ひきこもった。要するに、「何々からの自由」は得たけれども、「何々への自由」は分からない。目標が分からない。半年の間、一生分の本を読んだと思えるほど本を読んで過ごしました。
その中で、アルベルト・シュバイツァーの「人間が社会より大きいと幸福だが、社会が人間より大きくなると不幸だ」という言葉に出会いました。また、戦争で文化が崩壊したと思っていたのですが、シュバイツァーは、「そうではない。文化が衰弱したから戦争が起こった」と言うんですね。僕はこれに心打たれました。日本に豊かな文化を作っていかなければいけないと強く思い、立ち直ることができたのです。
良心はどこから来るのか
戦後、米国の情報が入ってきて驚愕(きょうがく)したのは、その徴兵制には、当人の良心に基づく信念で拒否した者を「良心的兵役拒否者」として認める制度があったことです。例えば、クエーカーやメノナイトといった教派に属する人は徴兵を拒否することができたのです。あるいは、軍に入っても銃は持たなくてすむ部署に配置されるとか。日本ではそんなことはあり得ません。命令が絶対的権威で、人間は国家に服従するしかなかったのです。しかし米国は、国家が人間の良心に服従するのです。
私はこのことを知り、とてもショックでした。自分には良心のかけらもないと。パウロは良心を「心に記した法」だというんですね。僕に言わせれば、「不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(1コリント13章6~7節)、それが良心だと思うのですが。
良心はどこに生まれるかというと、スピリチュアリティー、スピリットだと思うんですね。WHO(世界保健機関)は、健康の定義の中に、身体、精神的、社会的の他に「スピリチュアル」を加えたいと各国政府に伝えましたが、日本政府は非常に困惑しました。なぜなら、日本にはスピリチュアルという言葉の概念がないからです。これを「精神的」と訳すとメンタルになってしまい、「霊」と訳すと「幽霊」というイメージが浮かぶ。スピリチュアルというのは、創世記にある言葉、神様が人間を創造して鼻から命に息を吹き込んで生きる者とした、それがスピリット、神の愛です。そこから良心が生まれるのです。だから、スピリットという概念がないところに良心が生まれるのは非常に難しいことになります。
和解の経験
戦争というのは憎しみで、それを愛に変えることが平和です。
戦後、フィリピンに行ったのですが、友人から「決して1人で外に出るな」と言われるほど対日感情が厳しい時でした。教会の本部にあいさつに行くと、「今度の日曜に教会で話してほしい」と言われ、引き受けました。
しかしその後、その教会がある村は、かつて日本兵に破壊されたところだと知り、兵隊だった私の心の中に戦慄(せんりつ)が走った。「怖い」という思いを抱えながらジープに乗せられ、2時間半でその村に着くと、村の真ん中に竹で作られた教会が建っていました。
緊張の中で講壇に立ち、「日本から来た阿部です」とあいさつすると、なぜか会衆がニコッと笑うのです。どうしてなのか分からなかったのですが、戦争でのことを謝罪し、そのまま話を続けました。後で牧師が教えてくれました。
「日本人が来て、何か起こらないとよいがと、最初はいささか心配でした。でも、あなたの名前は、村で話されているパンパンガ語で『フレンド』『友人』という意味だったので、『今朝は日本から友人を紹介します』と言うと、会衆は喜んでくれたのです」
その後、竹で編んだ床の上に円陣になって郷土の料理をごちそうになり、そして青年たちが、12月初めだったので『ホワイトクリスマス』を、半袖のシャツで汗を流しながら歌ってくれました。彼らは雪なんて見たことないんですよ。本当に印象的だった。110人の人が来てくれたのですが、帰りにはその一人一人と握手をして別れました。これが私にとって和解の経験です。
和解というのは、裁判用語では、原告と被告が条件を出し合って妥協することですが、その意味は、罪を犯した者がそれを告白して赦(ゆる)しをこう。相手がそれを受け入れる。原告と被告が新しい理解と信頼に立つ。それを和解というのです。
神の赦しなくして和解なし
ドイツが敗戦40周年の時、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が国家の罪を告白し、ユダヤ人の慰霊碑に額(ぬか)ずいた。それを対戦相手のフランスが受け入れ、フランスとドイツがEU(欧州連合)を立ち上げた。和解の象徴だと思います。
日本は戦争で310万人が亡くなり、そのうちアジアでは2千万人が亡くなっていますが、意地っ張りの日本はアジアに対して和解していません。日本も含め、和解をすることは難しい。なぜなら、神様がいないと和解はできないからです。
神がキリストを通して人間の罪を赦されるというのが、神の和解です。だから、礼拝のことをドイツ語で「神の奉仕」といいます。「神のサービス」です。礼拝というと、上を向いて神を拝む感じですけれど、本来は、神が私たちの上に臨み、人々に呼び掛けてくれる神の和解です。罪を赦して、新しい光を掲げてくれるのです。キリスト教がしなければならないのはそこだと思いますね。
戦争責任を継承する
今まで私は戦争の話をしてきませんでした。話したくなかったし、話しても通じるとは思わなかった。でも、北朝鮮の姿を見てから、やはり語らなければいけないという気持ちになりました。若い人には戦争は関係ないけれど、戦争責任は継承していかなければならない。
ドイツはきちんとやっています。浄土真宗では、住職が変わっていく時に手形を残していくんです。これが継承されていく。それと同様に、自分の人生の手形の中に戦争責任を継承していきたいという気持ちになったのです。つい最近のことですが。