このたび、長崎県諫早(いさはや)市のぶどうの木聖書教会(内野隆牧師)の特別集会に招かれました。この機会に集会の前後、長崎のキリシタン史跡を訪ねようと計画しました。10月13日(金)午前、新千歳空港を飛び立ち、羽田経由で午後、長崎空港到着。路線バスとJR鉄道を乗り継いで夕方、島原駅に到着しました。島原城の近くの島原ステーションホテルに1泊しました。ホテルの近くに温泉があり、入浴しつつ地元の人々と談笑できました。
14日の朝食後、スーツケースをホテルフロントに一時預け路線バスを乗り継いで、約1時間余りで原城跡バス停に到着しました。そこで事前予約していました南島原ひまわり観光協会のUさんのガイドで、原城跡を見学しました。
江戸時代・徳川家光の世、厳しい年貢の取り立て、理不尽な厳しいキリシタン弾圧や、圧政に耐えかねたキリシタン百姓や浪人武士たちにより、天草四郎という16歳の少年を頭に蜂起した「島原の乱」。この原城に約3万7千人(諸説あり)の住民が立てこもり、幕府軍13、4万の大軍と死闘を繰り広げました。
1638年、圧倒的軍事力を誇る幕府軍の総攻撃により、幕府側と密通していた1人を除き、約3万7千人は、女性、子どもを含め全員惨殺され、遺体は地中深くに埋められ、その上に石や岩などで覆われました。原城周辺の住民がすべて惨殺されたため、幕府は、他地域から住民を移住させて村の復興を図ったと聞きました。それにしてもすさまじい歴史的大惨事です。
この原城跡には、今なお多数の遺骨が下に眠っています。ここからは、有明海や天草諸島を見渡すことができる風光明媚(めいび)な岬です。海の反対側には山が迫り、少し遠くに火山噴火の記憶も新しい普賢岳が見えました。島原の乱のリーダー、天草四郎も捕らえられ首をはねられ、長崎でさらし首になりました。四郎の母親も、妹たちも全員処刑されました。
約3万7千人が惨殺され、その遺骨の多くが地中に眠る原城跡。地元の住民たちは、この地を不気味がり、特に夜は近づかないと聞きました。しかし、地元生まれで、この地で育ったガイドのUさんは、この地をこよなく愛し、「原城跡を世界遺産に」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)の運動を熱心にされていました。とても素朴な方でした。
キリスト教禁教初期に、島原と天草の潜伏キリシタンが蜂起した「島原・天草一揆」は、徳川幕府に大きな衝撃を与え、その後200年余りの長き鎖国体制確立のきっかけともなりました。しかし、残された潜伏キリシタンたちにとって、密かに自分たちで独自の信仰を続けていく契機ともなりましたので、原城跡は歴史的にも重要な場所です。
私は、今回初めて原城跡を訪れ、1993年春、イスラエルのマサダの遺跡を訪れた時を思い出しました。あのマサダの砦で、紀元70年、都エルサレムが滅亡し、ユダヤ熱心党967人が籠城して当時世界最強のローマ軍に抵抗を続けました。しかし結局、ローマ軍の前に7人の女、子どもを除き全員自決しました。この世界的に有名なマサダの悲劇と原城・島原の乱の悲劇は類似しています。いつの時代も、国家権力や強大な軍事力により、それに抵抗する数多くの尊い命が奪われてきたという歴史の悲劇を思います。
この島原の乱は、キリシタンだけでなく非キリシタンの住民、武士たちも加わっていたことと、武装蜂起した観点から、厳密な点で「殉教」とは一線を画する出来事といえます。なお、この原城跡の近くに戦国時代のキリシタン大名であった有馬晴信の居城であった国指定史跡・日野江城跡や有馬キリシタン遺産記念館がありましたが、残念ながら時間がなく見学できませんでした。今回駆け足で原城跡を見学、島原に戻り、島原城を短時間見学後、列車で諫早市に向かいました。(その夜、大村市の大村古賀島キリスト教会での三浦綾子読書会に参加しました。三浦文学に関心を持つ兄姉約20人が参加し有意義な時でした)
次回、ゆっくり時間をかけて、この島原半島のキリシタン関連遺跡を再訪したいという願いを強くした「原城跡」見学でした。
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