映画の物語を紡ぎ出す過程で、不特定多数の大衆に受け入れられる作品に仕上げるため、製作者側はどうしても「モチーフ」となる物語を見つけようとする。皆が知っているストーリーをなぞることで、観客に「既視感」を与えて安心させ、次の展開はこうなるのだな、と予想させることで物語への興味を持続させようとする。
欧米の作品において、このような効果を最大限に引き出すモチーフ、それは「聖書」である。特にハリウッドでは、決して失敗しない安全策として「聖書のアレンジ」がよく用いられてきた。例えば、「カインとアベル」物語は「エデンの東」の骨格となり、「キリストの十字架と復活」物語は、複雑な「マトリックス」シリーズを人々に納得させた。
同じ構造を持った映画が、今回取り上げる「猿の惑星 聖戦記」である。本作は「猿の惑星 創世記」に始まるリブート版の完結編で、オリジナルの「猿の惑星」へ続く前日譚(ぜんじつたん)的位置づけになっている。
そもそも「猿の惑星」とは、フランス人作家ピエール・プールが1963年に発表したSF小説である。他の作品として「戦場にかける橋」があることからも分かるように、彼は第二次大戦中に日本軍の捕虜となった経験がある。それをもとに「戦場にかける橋」、そして「猿の惑星」を執筆したのである。両作品に共通するのは、日本人への軽蔑と敵対心である。そのため「猿の惑星」の中で、人間たちを暴力で支配し家畜化する猿たちは、日本人のメタファーとして描かれていた。
やがて「猿の惑星」は、ハリウッドで1968年に映画化される。その時、猿のメタファーは日本人から人種問題で揺れる米国民へと変化させられた。だから、あの有名なラストシーンが生み出されたといえよう。60年代から70年代にかけて、本シリーズは5作品作られた。そしてリブートが2011年に公開され、その後2作品が作られたことになる。
本作「聖戦記」では、高度に知性化した猿、シーザーの成長の物語として描かれている。彼は繰り返される人類との戦争に辟易(へきえき)し、何とか平和に人間と猿が共存できないかと模索する。しかし、人間側のかたくなな姿勢のため、彼の願いは家族が暗殺されるという最悪の結果を招いてしまう。そこで彼は、猿たちのリーダーであることをやめ、個人的な復讐に走ってしまう。しかし、彼の自分勝手な行動から、仲間たちはさらに激しい迫害を人間から受け、ついに奴隷として重労働にこき使われる立場に置かれてしまうことになる。
ここで面白いのは、人間たちが作り上げようとしていたのが「壁」であり、それによって壁の向こうから押し寄せてくる敵を撃退しようと画策しているという設定である。しかもその人間集団の集会場には、米国国旗が掲げられ、米国国歌が毎朝流されるという細かい演出がついている。もはやここに至っては、メタファーを超えて、猿と対峙(たいじ)している人間集団が米国軍、しかも現代のトランプ政権下の米国であることをはっきりと描いていると言えよう。
シーザーには2つの大きなミッションが課せられることになった。1つは、自分勝手に行動したため失ってしまった仲間からの信頼を回復すること。もう1つは、奴隷状態になる猿たちを人間から解放し、彼らが平和に生きることができる新天地へと導くこと。
もうここまででお分かりだろう。そう、シーザーは「出エジプト記」に登場するモーセのメタファーであり、猿たちはイスラエルの民として描かれているのである。自分勝手な方法で同胞を助けようとし、かえって仲間から疎外されてしまい、40年間も羊飼いとして放浪しなければならなかったモーセの姿は、リーダーシップが欠如したシーザーの姿に反映されている。また、民の解放を願ってファラオの前に何度も出向く姿は、捕らわれの猿たちのために命懸けで人間の首領のもとへ交渉に行くシーザーの姿に重なる。
しかし、なぜこのようなSF作品が「出エジプト記」と関連付けられるのだろうか。ここで1つ歴史神学的な視点が、この映画を理解するためには必要になる。それは、米国において「イスラエルの民」とは、自分たち米国市民のことを意味しているということである。
1620年にメイフラワー号に乗って新天地アメリカにやってきたピューリタンたちは、「旧世界(欧州)」の圧政下において奴隷状態にあった。しかし、「新たなカナンの地(新天地アメリカ)」を神から示されたと受け止め、彼らは旧世界を後にし、新天地へと一歩踏み出していく。これを米国版「出エジプト記」とし、今でもこのピューリタンたちを「ピルグリム・ファーザーズ」として米国民は称賛している。
つまり、彼らにとって「出エジプト記」とは、単なる聖書の中の物語ではなく、自分たちのアイデンティティーを生み出す「魂の物語」となったのであった。だから、圧政に苦しめられた者たちが、新天地へと導かれる物語を何度も繰り返し味わいたくなるのである。
猿のメタファーが、時代とともに変化している点にも注目しておきたい。原作では「日本人=猿」という明らかな蔑視表現であり、そのような低能な猿どもに支配されつつある西洋社会をピエール・プールはアイロニカルに描いた。やがてハリウッドの手によって生み出された映画は、明らかに黒人差別問題を意識した作りとなっていて、特に第3作「新・猿の惑星」では、猿たちが明らかに色黒く、そしてマイノリティーとして抹殺される展開になっている。
今回のリブートでは、そのあたりが新シリーズ前2作ではあまり明確になっていなかった。しかし今回、猿は奴隷として壁を作らされ、虐げられている。そこから解放される(出エジプトする)という意味では、猿はマイノリティー人種に代表される米国人のメタファーとなる。米国国旗の下に壁を作らせる側の米国人(WASP)の横暴に対し、猿たちは最後に立ち上がり抵抗し、その場を脱出する。そして、彼らの新天地(カナンの地)へ導かれていく。
しかしシーザーは、その新天地を目にして、そこで息絶える。これもモーセの人生をなぞっていると考えるなら、当然の落としどころだ。そして、猿たちを虐げていた白人たち(エジプト人たち)は、雪崩にのみ込まれて皆死滅してしまう。これら以外にも、随所に製作者が聖書をもとにしながらアイロニカルに訴えるメッセージを散見できる。
猿で表されたメタファーが、日本人から黒人、そして21世紀になると米国そのものへと変化している。この解釈の違いは、映画が時代とともに作り上げられていることの証左と言えよう。
このように、ハリウッド映画と聖書、そして米国の歴史は、密接に連関されていることが多い。こういった観点から映画を見て、聖書をひもとくことができたら、と心から思う。そういった映画会を教会で開催してみてはどうだろうか。喜んで行かせていただきたい。
ご連絡は、青木保憲(メール:[email protected])まで。
■ 「猿の惑星 聖戦記」予告編
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