毎日、部屋で寝ていると、「朝だよ。起きなさい。学校、遅れるよ」と言われていました。朝は体も硬い上に低血圧気味だった僕は、寝起きの悪さも加え、僕を起こすにも両親は大変だったと思います。
両親は僕に、自分で考えて決める判断力を身につけさせようとしていました。そして、僕の意志を尊重するようにしてくれていました。朝起きると、「今日の調子はどう? 学校、行く?」などと、父は僕に判断を委ねます。
休むことが嫌いな僕は、少し体調が優れなくても学校に行き、「学校、休む」という時は、よほどの時だけでした。
年に1回、障碍(しょうがい)者団体のピクニックが行われていました。障碍者団体の代表もしていた父は主催者側として参加し、障碍を持つ親子とボランティアさんが集まり、観光バスを借りて毎年ピクニックに出掛けます。ある年のピクニックで、家族でもよく遊びに行っていた埼玉県にある国営武蔵丘陵森林公園に行きました。
体を動かして思いっきり遊びたい中学生の僕は、車いすから降りて広くきれいな芝の上に転がり遊んでいました。遊んでいるとボランティアさんから、「憲ちゃん、こっちで一緒にボールで体を動かそうよ」と誘われました。体を動かすことが好きだった僕は、父に「遊んでくる」と言って、ボランティアさんの場所に行きました。すると、父は僕にこう言ったのです。
「明日、体が痛いって学校休んだら怒るからね! 体調崩しても休ませないよ!」。それは忠告でした。遊びたい僕は「分かった。分かった」と無視して、思いっきり体を動かし遊んでいました。その翌日、僕は少し疲れていたものの、何も言わずに学校に行きました。そんな僕が高等部に入学し、しばらくして学校を休むようになってしまったのです。
それは高等部に入学し、2、3カ月がたった頃でした。「学校、遅れるよ」と朝起こされて目覚めると、右足の大腿部に痛みを感じました。普段、少々の痛みでは「痛い」などと言わない僕でしたが、この時は「なんだか足が痛い。右のお尻のあたりが・・・」、そう父に言いました。それは何とも言えない違和感と、今までにない痛みでした。父に「どうした? 学校、行ける? 休む? 休みの電話しようか?」と聞かれましたが、「大丈夫だよ。学校、行く」と足に痛みを感じながら学校に行きました。
その痛みで授業どころではありません。普段から障碍の関係で不随意運動もあり、自分の意思と関係なく体や手足が勝手に動いてしまいます。勝手に動いてしまう足は「動かさないように」、そう思っても勝手に動き、動くとともに痛みを強く感じてしまいます。
「帰るまで我慢しよう」と、何事もないように授業を受けていましたが、痛みに耐えきれず、苦しい顔をして「先生、足が痛い」と言いました。痛みは治まることなく何日も続き、かかり付けだった整肢療護園(現在の心身障害児総合医療療育センター)に行くことにしました。
整形外科で診察を受け、先生に「どこが、どう痛いか」と聞かれました。それは筋肉の痛さとは違う痛さだと自分で分かり、痛い部分を伝え「骨が痛い感じです」と言いました。すると、先生は痛む部分を手で触り「レントゲンを撮ってみましょう」とレントゲンを取りましたが、どこにも異常は見当たりませんでした。
最初、「成長期で痛いのではないか」などと両親や先生は思っていたようです。「成長期って、こんなに痛むものなの?」、僕はそう思いながら、「しばらく様子をみましょう」と処方してもらった痛み止めの薬を飲み、シップを貼っていました。「これで痛みが取れる」、そう思いましたが、薬を飲み、シップを貼っても痛みは治まらず、日を追うごとに激しくなり、激痛になっていきました。
痛みは続き、毎週のように整肢療護園に通い、何度もレントゲンを撮って検査をしてもらいました。痛みの原因が分からないまま「痛みを取ってもらおう」とブロック注射を打ってもらい、お灸をしたり、牽引(けんいん)をしてもらい、ありとあらゆる手段で痛みを緩和させようとしました。しかし、何をしても痛みは治まらず、痛みのあまり夜も眠れなくなっていきました。
足が痛み出してから1年がたち、2年がたっても痛みは治まらず、毎日痛みに苦しみ闘っていました。原因が分からないまま通院していたある日、「こんなに長く痛がっているのは、おかしいですよ。角度を変えてレントゲンを撮ってみてはどうでしょう?」、父は先生に、そう言いました。それまで毎回、同じ角度から映していました。それで角度を変えて、数枚レントゲンを撮ってみました。すると、「これか!」、痛みの原因が分かったのです。
レントゲンに写っていたのは、本来ある骨と骨の間のクッションの役割をしている軟骨がすれて無くなり、骨同士が当たってこすれ合っている状態で、病名は大腿骨間接軟骨壊死(えし)でした。それは、不随意運動の激しい動きや、変形する足を組んでしまう姿勢などが大きな原因でした。
「先生、手術して治りますか?」、僕が先生に尋ねると、「手術すると足が動かせなくなる可能性があるから、やめた方がいい。だましだまししながら生活していくしか方法はないだろうな」と言われました。
痛みに耐えることが精いっぱいでした。父が起こしに来ると「おはよう。足、痛い? 寝られた? 今日、学校どうする?」、そんな言葉から1日がスタートするようになりました。
学校に行くのは、足の調子がいい時でした。調子がいいといっても、痛みがないわけではありません。そして、体の姿勢も、その日の痛み方や時間帯によって変えなければ、痛みに耐えきれませんでした。車いすに座るときも、痛みによって座る体勢や位置を変えなければ、耐えることができなかったのです。
学校に行くために車いすに乗ります。日によって痛みの度合いが違うため、「今日は、どういう体勢で座るのが楽?」などと父に聞かれ、「足が動くと痛いから、動かさないように縛って」とか、「足を組んじゃうから、組めないようにして」「股を閉じないようにして」などと足を車いすに固定してもらったり、「正座で座る」と言って車いすに正座で座ったり、学校でも先生に座る姿勢を替えてもらっていました。
僕は痛さのあまり、学校を休むことが多くなってしまいました。「今日は、学校どうする?」と聞かれ、苦痛な顔をして「痛い。休む。ごめん、学校に電話して」と言い、高等部の3年間で学校に通えた日数は4分の1程度でした。
足の激痛に苦しみ、通いたい学校を休んでいるにもかかわらず、PTAや肢体不自由児者父母の会の会長や福祉団体の代表などをしていた父は、「行ってくるね」と僕を留守番させて毎日出掛けていたのです。
痛みが和らいできたのは、高校3年生になってからのことでした。痛さで休む日が多かったものの、「行ける時は行こう」と痛みをこらえ、座る体勢を工夫しながら学校に通っていました。
当時、足を組んでいる方が体が楽でした。組んでいないと、不随意運動でバタバタと激しく動いてしまい、落ち着きませんでした。その上、足の股関節も変形し、両股も開けられない状況でした。
「足を組まないように」、そう言われていた僕は、「足を組まないようになれば痛みが取れるかもしれない」と高等部を卒業後しばらくして「足のベルトを作って」と頼んで作ってもらいました。車いす上では足を組まないで座っているようにベルトで固定してもらい、寝るときも両足が閉じないように股の間に枕やクッションを挟んで寝ていました。
ベルトをつけるようにしてからの数カ月間は、ものすごい硬直と緊張で足を閉じようとしたり、組もうとしたりして、体にきつかったです。しかし、1年ぐらいたった頃、股はだんだんと少し開くようになり、足も徐々に組もうとしなくなっていきました。
こうして毎日、5年間ベルトをして足を組ませないようにしていました。しかし、今ではベルトをしないで足を組むことなく、落ち着いて車いすに乗っていられるようになり、寒くなると痛みが出てくるものの、支障なく生活することができています。
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