JR茨木駅からバスで40分。千提寺口(せんだいじぐち)バス停からさらに10分ほど山道を歩いた場所に茨木市立キリシタン遺物史料館はある。京都との府境に近いこの付近で、大正時代、「上野マリア」「佐保カララ」らのキリシタン墓碑(江戸時代初期)が発見され、また家々からは次々とキリシタン遺物が出てきた。それらを展示するキリシタン遺物史料館が建てられたのは今から30年前のこと。
今年、高山右近(うこん)の列福式が行われたのに伴い、ひそかに人気の観光地となっている。同館を訪れるのは、日本人クリスチャンや歴史愛好家・研究者をはじめ、海外から訪れる人も多い。特に韓国からの訪問者が多く、中には涙を流しながら遺物を見、賛美歌を歌って帰る観光客もいるという。
この近隣には現在もなおキリシタンの末裔(まつえい)が住んでいる。同館の管理は、茨木市から委託され、そうした家の女性たちが持ち回りで行っている。
キリシタンの足跡を知る貴重な遺物を展示している史料館は、決して広くはないが、一つ一つの遺物からは、今の時代を生きる私たちへの叫びが聞こえてくるようだ。多くの歴史教科書に紹介されている聖フランシスコ・ザビエルの肖像画も、1920年、この史料館の向かいにある東家で発見された。現在は神戸市立博物館に所蔵されているが、そのレプリカが同館には展示されている。
キリシタン大名、高山右近の領地であるこの地に、キリシタンが多く存在していたことは想像に難(かた)くない。農家が多く、ひっそりとした山奥で静かに信仰を守り続けてきたのだ。1573年に高槻城主になった右近は、熱心に伝道活動を行った。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』によると、高槻領内には20を超える教会が建てられ、81年に高槻で復活祭が行われた時には1万人以上のキリシタンが集まり、その光景は「まるでローマのようだった」と書かれている。しかし、87年に豊臣秀吉がバテレン追放令を出すと、右近は自ら大名の地位を捨てる。さらに1612年には徳川家康がキリシタン禁教令を発し、14年、右近はマニラへと追放され、翌年に帰天した。
そのような中、この山里に住むキリシタンたちは、表向きは仏教徒のように見せかけていたが、ひそかに固い信仰を守り抜いていた。辺りには、「クルス山」と呼ばれる小高い山などがあり、ゆかりある土地名も残されていた。
1919年、キリシタン研究家で教誓寺住職の藤波大超(ふじなみ・だいちょう)は、茨木市の山あいの地域、この千提寺周辺にキリシタンがいたとの仮説をもとに調査を開始。地元の老人らを中心に聞き取りを行った。しかし、誰1人としてキリシタンに関する話をする者はいなかった。大正に入った当時でも、「そのことを明かすと捕らえられるのでは」と考えられていたからだ。
やがて何度も通ううちに、ある老人が「うちの山に面白い墓がある」と見せてくれたのが、十字の刻んであるキリシタン墓石だった。このことがきっかけとなり、周辺の家の調査がさらに進められた。
墓碑発見に協力した東家からは「あけずの櫃(ひつ)」が出てきた。これは先祖代々、長男(世継ぎ)にだけ語り継がれていたが、決して開けることのなかった長細い木製の櫃。その中から発見されたのが、前述の聖フランシスコ・ザビエルの肖像画だ。他にも、型から取り外すことのできる折り畳み式のイエスと十字架の像や聖画が数多く入っていた。
千提寺の隣の下音羽(しもおとわ)にも調査は及び、キリシタン末裔の家からは続々と遺物が発見された。筒が台所の天井の柱にくくりつけてある家や、蔵に遺物を大切にしまい込んでいる家もあった。
この地域には、最後の隠れキリシタンで「キリシタン3姉妹」と呼ばれた老婦人がおり、その中の1人、東イマさんの孫にあたる女性が、茨木市の保存する資料ビデオの中で次のように話している。
「おばあちゃんは幼い日、踏み絵の経験があったと聞いています。イエス様の絵が描いてあるその板を前に、あまりにももったいなくて踏むことができなかったのですが、その板の前で転んでしまい、自分の体で踏み絵を踏むことになったそうです。足で踏むことはありませんでしたが、まだ幼かったので役人も許してくれたのでしょう」
口伝えによって伝承されてきた祈り「アベマリアのオラショ」も、この天保(てんぽう)年間生まれの老婦人たちによって再現された。それにより、遺物だけでは知ることのできない儀式や風習の様子を垣間見ることができたという。
このニュースは世界に伝わり、1926年にはローマ教皇使節一行が千提寺を訪問している。
千提寺や下音羽のキリシタン末裔の家は、下音羽にある曹洞(そうとう)宗高雲寺を菩提寺としている。高雲寺からはキリシタン墓石が発見された。また、高雲寺の親寺である崇禅寺(大阪市東淀川区)には、明智光秀の三女でキリシタンとして有名な細川ガラシャの墓がある。この地方のキリシタンの足跡を知る貴重な資料である高雲寺の過去帳は、太平戦争当時、この崇禅寺に預けられたが、その後、行方が分からなくなり、この地の隠れキリシタンのルーツがどこにあるのか、現在では闇に葬られたままだ。
静かな山奥で人知れず信徒たちはただ神を信じ、天を見上げて不安や恐怖と戦っていた。声高らかに主を賛美し、苦しい時に祈りの声を上げ、喜ぶ時には「ハレルヤ」と叫べる今日。先人の信仰に敬意を感じずにはいられない。