現代の『天路歴程』物語が濃密に描き出すキリスト教(福音)の本質!
世界で一番ヒットした映画「アバター」に主演し、一躍ハリウッドスターの仲間入りをしたサム・ワーシントン主演、オスカー女優のオクタヴィア・スペンサーが脇を固め、石田純一の娘にしてハリウッド初進出のすみれが出演している話題作。米国では2007年に原作が発刊され、70週にわたってニューヨーク・タイムズ・ベストセラー・リストで第1位を保持したとのこと。
昨今のインディペンデント系クリスチャン映画(「神は死んだのか」「天国は本当にある」「祈りのちから」)とは異なり、有名俳優やCGをふんだんに利用した「ハリウッド映画」に仕上がっている。
今回と次回に分けて、この映画が私たちに投げ掛けてくるものを考えてみたい。前編は「キリスト者が求める真の生き方」、後編では「ノンクリスチャンにとってこの映画の持つ意味」について。
物語は「神がいるならどうしてこんな悲劇が私に起こるのか」という、古くて新しいテーマを扱っている。組織神学的に言えば「神義論(しんぎろん)」ということになる。
物語の詳細は、ネタバレしないために、今の段階では多くを語れない。物語は、突然の出来事によって身近な家族が失われ、どうしてこんなことが起こるのかという「答えなき問い」に取りつかれてしまった主人公が、その無限ループから抜け出るまでの魂の旅路をたどるファンタジーである。
しかし、単なるファンタジーではなく寓話(ぐうわ)的な物語だからこそ、このような事態に陥る可能性が私たちにはあるという意味において、登場人物のリアリティー溢れる心情がこちらにも痛いほど伝わってくる。
かつて「インナーヒーリング」という言葉がはやったが、まさにこの映画は、主人公が抱えている心の傷が少しずつ癒やされていく過程を描いている。そして、驚くべき旅路(アメイジング・ジャーニー)の果てに1つの決断をする。彼の選択は、現代的なキリスト教的祝福の具体例だと言えるだろう。
同じような形式で進んでいく物語に、1678年に英国で書かれたジョン・バニヤンの『天路歴程』がある。「破滅の町」に住んでいた「クリスチャン」が、さまざまな困難に遭遇し、それらを乗り越えて天国へ凱旋するまでを描く寓話である。
こちらの寓話も、当時の人々が主人公と同じ苦悩や難題を抱えていたため、主人公クリスチャン(まんま、ですね)の選択や葛藤に共感できる仕掛けになっていた。自分の生き方を見つめ直す機会を提供しているという意味において、聖書に次いで人々に読まれた信仰書であった。
この「アメイジング・シャーニー」も同じような形式をとっている。誰にでも起こり得る突然の悲劇と、そこで苦悩する主人公マックの姿は、子を持つ親なら誰もが身につまされる。だから、彼の身に起こる出来事を、そのままスクリーンを通して私たちも体感することになる。それはまるで21世紀型『天路歴程』と言ってもいい。しかしその着地点は、17世紀の英国と21世紀の現代では異なったものになっている。
教理が主体となって構成された17世紀のキリスト教(プロテスタント)と、個々人の体験(感覚)が主体となって構成された現代のキリスト教との違い、とでも言うべきだろうか。人間の幸せがどこにあるか、どうしてキリスト教信仰を持つのか、という根源的な部分で、数百年の隔たりによって、そのキリスト教的価値観も大いに変質してきたことを思わされる。
さらに後半に半ば強引に「赦(ゆる)し」というテーマが登場する。このあたりの展開には賛否あるだろう。「キリストが私たちの罪のために死なれた」という福音主義の1カ条としてこの「赦し」を捉えるなら、後半の展開は奇異に感じられるはずである。
しかし、「赦し」という行為が、実は赦せないと思っている本人を苦しめているため、あくまでも「本人のための赦し」としてこの行為を決断するということは、心理学的側面を加味した新しいキリスト教観を感じさせることになる。
本映画の宣伝では、先に公開された「沈黙」に対するアンサー映画として「アメイジング・ジャーニー」がある、と訴えられているが、そのあたりは時代的な差異も加味するなら納得できる。単純に舞台が日本とアメリカの違い、というだけでなく、キリスト教自体が時代を経る中で成熟して(と私は捉えているが)、個々人にとって実感しやすい「恵み」「祝福」へと洗練されつつあることが見て取れる。
オリジナル『天路歴程』では、キリスト者は最後に天国へ行くことでハッピーエンドを迎える。しかし21世紀型『天路歴程』(アメイジング・ジャーニー)は、むしろ「『地』路歴程」とでも言うべき真逆のハッピーエンドを迎えている。
それは「この地で生きる」こと。悲しみや苦しみがいつ何時自分を襲うかもしれない「この世の中」で、信仰を持って生きることの尊さをつかみ得たとき、人は真のハッピーエンドを迎えることができるのだ、ということになるのだろう。当然、現代の観客にはこちらの方がリアリティーを感じられ、そして納得し得るものとなる。主人公は信仰によって神の国へ引き上げられるのではなく、信仰によってこの地で神と共に過ごす「生き方」を学んだのである。
ジャンルは異なるが、同じような展開で「地路歴程」する物語で、重松清の『流星ワゴン』がある。こちらも一見ファンタジー的な展開を見せるが、そのまま天に行ってしまうのではなく、やはり今ある現実、この地から人生はやり直せるし、そうしてこそ真の幸せをつかめる、と訴えている。
そう考えてみると、信仰心や宗教的な違いこそあれ、実は人間が真の幸せを求める方向性は意外に似通ったものなのかもしれない。そうであるなら、なおのこと、信仰を抱いている私たちがこの世で雄々しく生きる姿は、真に生きたキリスト教を体現することになるのではないだろうか。
クリスチャンの友人と一緒に劇場に足を運んでみてはいかがだろうか。きっと「信仰者としての幸せ」について語り合いたくなること請け合いである。