1945年8月6日、爆心地のすぐ近くにあった広島流川教会の牧師館で被爆した近藤紘子(こうこ)さん。父の谷本清氏は広島流川教会の牧師で、終戦直後から米国全土を巡り、広島の惨状を伝えるべく講演活動を行った。また50年からは、被爆した少女や孤児の救済活動、渡米治療に取り組んだ。
――谷本牧師は、原爆でやけどなどを負った女性を米国へ連れて行って治療を受けさせる活動をしていたそうですね。
25人の被爆した女性を連れて米国に渡ったのは55年のことでした。原爆投下から10年がたっていました。その時、私たち一家は「This is Your Life」という米国のテレビ番組に出演する機会があったのです。父が米国に渡った翌日、米国のテレビ局から突然、電話がかかってきて、私たちきょうだい4人と母も米国に来てほしいということになりました。父や他の人には内緒でという条件でした。テレビ番組に出演していた父は、その番組内で私たち5人と再会するのです。とても驚いていました。
――そのテレビ番組で、その後の紘子さんの活動の原点となる出来事があったとか。
その番組には、原爆を投下したエノラ・ゲイに搭乗した副操縦士のロバート・ルイス氏もいらっしゃっていました。私は、「あのおじさんは誰だろう」とずっと不思議に思っていました。母に聞いても、その人が誰なのか教えてくれない。しかし、私も当時、少しの英語が分かりましたから、その彼が原爆を投下した張本人であると知ったのです。
両親には内緒にしていましたが、私はずっとこのように考えていました。「ケロイドでひどく顔がただれてしまったお姉さんも、亡くなった教会員さんも、あの爆弾さえ広島に落ちなければ、こんなに苦しめられることはなかった。私は正しい人だから、いつかその原爆を投下した本人に会ったら、敵(かたき)を討ってやる。その張本人に会う日が訪れたら、かみついて、パンチをくらわして、蹴っ飛ばしてやるんだから」。そのように思いつく限りの仕返しを考えていました。もちろん、両親にバレたら、「汝(なんじ)の敵を愛せ」という聖書の言葉を持ち出されて、「そんなことを考えてはいけない」と言われたでしょう。だから、絶対に両親には言わなかったし、周りの友達にも言わず、ずっと心の奥底にしまっておいたのです。
――ついにその日が来たわけですね。
そうです。「あいつか、私たちを苦しめたやつは」と、思いっきりルイス氏をにらみ付けました。その番組の中でルイス氏はあの日のことを話し始めました。
エノラ・ゲイに乗り込んだ彼は、米軍がターゲットとしていた広島、長崎、小倉の3都市の気象状況の報告を聞きました。広島上空は晴れていたので、ターゲットは広島に決まりました。原爆を投下した後、直ちに飛行機は広島上空から退避したそうです。爆風などで飛行機にも危険が及ぶと予想されたからです。しかし、その数十分後、もう一度広島上空に戻るよう指令が出されました。戦果を確認するためです。雲の下を見ると、それまであった広島の街が消えていたそうです。その日の飛行日誌に、彼はお母さんに書き記すかのように、「My God, What have we done!(神様、私たちはなんてことをしてしまったのでしょう)」と記したそうです。そう話す彼の目には涙があふれていました。
私は彼の涙を見た時、「このおじちゃん、鬼じゃなかったんだ」と思いました。それまで、いつか敵討ちをしてやろうと思っていたそのおじさんも、自分たちと同じように苦しんでいたことを知りました。「神様、私は自分が正しいと思っていました。このおじさんも苦しんでいたことを知りませんでした。ごめんなさい。赦(ゆる)してください」と祈りました。そして、番組終了後、私の隣にいたキャプテン・ルイスの手にちょっと触れてみたのです。これが、その時、私にできた精いっぱいの「ごめんなさい」でした。
――ルイス氏とはそれっきりですか。
私が米国の大学で学んでいた大学2年生の時、ルイス氏にもう一度会って、「あなたのおかげで私は気付いたのです。ありがとう」と伝えたくて、行方を捜しました。しかし、彼は神経科病院に入院していました。胸が痛みましたね。軍の命令とは言え、やはり彼は自分のしてしまったことの大きさに一生苦しめられていたのです。その後、私は、彼が作ったという芸術作品を彼の死後、新聞で見ることができました。きのこ雲に一滴の涙が表現されていました。
――留学先から帰国して、すぐに広島に?
いいえ。私は、中学校の時にABCCで受けた検診以来、「もう二度と自分が被爆者だと言うまい」と決めたのです。「あんな恥ずかしい思い、あんなつらい思いをするなら、言わなければいいんだ」と思っていました。ですから、広島には帰りたくなかった。しかし、その間も父は必死で日本の平和、世界の平和のために広島からメッセージを発信していたのです。
――お父さまはなぜ平和活動に没頭されたのでしょう。
父は8月6日のあの日、牧師でありながら、助けを求める人々よりも自分の家族、教会のことを優先させたエゴイズムに苦しんでいたのだと思います。これが父の平和活動の原点です。
父はよくこう言っていました。「平和を望むがあまり、政治家を動かそうと思っても、それはなかなかできるものではない。しかし、人から人へ、市民が動けば、必ず大きなうねりとなって、やがて日本を動かすことができる」
私は父ほどは活動できないにしても、そうした父の思いを継いで、彼の残した足跡をたどって歩んでいきたいと思いました。
――現在は、8月にツアーを組んで、米国の学生に広島や長崎を案内されているとか。
毎年、京都、広島、長崎を巡り、話をしています。うれしいことに、「私たちは、あなたが話してくれたことを次世代に伝えていくよ」と話してくれる学生さんもいます。
私も70歳を過ぎて、あと何年、こうして語り部をしていられるか分かりません。私の話したことを伝えていってほしい。私の言ったことだけではありません。今は平和な日本にも、かつて戦争をしていた時代があったということ。そして、二度と戦争はしてはいけないということを伝え続けてほしいのです。
――紘子さんが今後も伝えていきたいものは?
よく「どうやって生き残ったの」と聞かれるのですが、正直、自分が幼い時の話は、直接、両親に聞いたことがないのです。それを聞いてしまうと、両親が一番つらかった時のことを思い出させてしまうのではないかと、幼心に聞いてはいけないと思っていたのですね。ですから、当時の広島の惨状を伝えるのも大切ですが、戦争という大きな渦の中にも、広島の街には人が住んでいて、そこには普通の暮らしがあったということを知ってもらいたいですね。大きな渦の中にいたのは人なんです。
広島の平和公園には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という石碑があります。私はこの言葉をいつも心に留めています。「二度と繰り返さない」と誓ったのは、あの日、広島の空の下にいた私たちも、上空を飛んでいたキャプテン・ルイスも同じだと思うのです。
核兵器は、72年前と比べものにならないほど発達しているでしょう。今、どこかの国に核兵器が使用されたら、広島や長崎が受けた被害どころではありません。国同士が争っている場合ではなく、全世界で取り組んでいかなくてはならない課題が核兵器廃絶です。これだけは伝えていきたい。核兵器は、どこの国も持つべきではありません。