<本文と拓本>32文字(644+32=676)
京義寧坊造大秦寺一所(所司は即ち京の義寧坊に於いて大秦寺一所を造り)、度僧廿一人(僧二一人を度す)。宗周徳喪(宗周の徳が喪びて)、青駕西昇(青駕が西に昇り)、巨唐道光(巨唐の道光やけば)、景風東扇(景風は東扇す)。旋令有司(有司を旋らしめて)・・・
<現代訳>
役人たちは長安城内の一画にある義寧坊に大秦寺を建て、指導者たち21人を迎えました。昔、宗周の時代、宗家の徳が失われたとき、西に昇る青駕のように、偉大な唐の道が光り輝き、景教は東の中国に来ました。役人たちは・・・
<解説>
大秦寺の文字は碑文冒頭にも出るが、大秦とはユダヤのこと。ユダヤのイエスの教えであることから景(景は世界の光イエスの意味)教とした。以前の名称はペルシアから来たことから波斯(ペルシア)寺と呼んでいた。景風はイエスの教えのこと。
宗周とは紀元後の人と時代で、その時代が過ぎて、唐の時代となって栄え始めたときに景教が長安に来たという。唐代の開始は紀元618年で、17年後の635年に初代宣教師が公的に中国に入った。その時代は太宗皇帝が全土を掌握し、安定に向かっていた時期でもあった。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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