かねて一目会って一緒に祈りたいと思ってきた友人、飯野君から君に会いたいと手紙が来た。彼は私と中学が同級で、誘って一緒に青年時代を、同じ教会で過ごした人である。洗礼も一緒に受けた。彼とは、中学の時から、いつも一緒でした。彼が会いたいと言えば、私はどこにでも会いに行ったし、私も会いたいと言えば、彼はどこにでも来てくれた。交代で車を運転して旅をしたり、本当に、神田の古本屋の町並みを幾度一緒に歩いた事でしょう。そうして、揃って教会に行き、賛美歌を歌い、そして、松本牧師の手で、揃って洗礼を受けたのです。私が、長い間教会から離れてしまい、帰りたくても帰れずに思い悩んだ時、力になってくれたのも彼でした。
「大丈夫だよ、聖書の放蕩息子の例もあるし」そう彼は言ってくれました。私は「放蕩息子は、もっとちゃんとしていたかも知れないぞ」とそう冗談を言って、そうして転籍して帰る事が出来た鶴川教会の玄関前で、彼は一緒に並んで、幸せそうに、写真を撮ってくれたのでした。でもその後、些細な事からいさかいを致しました。私は怒って電話を切りましたが、何とそれ以後、私の思いに反して、音信不通になってしまったのです。私は心底後悔して、彼との関係が元に戻る様にと祈りました。松本牧師も心配して「大丈夫だよ。必ず元に戻るから」とそう仰言って下さいました。
そんなある日の事、突然彼は、私の港南シオンキリスト教会にやって来ました。そうして私の隣に座って、一緒に礼拝を守ってくれました。それが何と彼は、ガンに侵されてもう手の施しようもないと医師から告げられて、無性に私に会いたくなって、やって来たのだ、とずっと後になってから私に告げたのです。彼はその時、それなのに、ただ病気とさえ一言も告げず、疲れたと言って帰ってしまいました。
忘れもしません、それから、三ヶ月経ったある日(九四年一月)、手紙が来ました。
「君の限りない友情に感謝します。近況を知らせておくべきかと思いました。八月二日(九三年)に胃ガンで胃を切除しました。八月末に退院して、全く直ったと思いましたが、直ぐ、肝臓に転移していること、手術不可能であることを知りました。七月(九四年)主治医から、これ以上抗ガン剤を使えません、病院治療の限界です、ホスピス・ケアに移行します、と言われて、医療者から文字通り匙を投げられました。そして九月(九四年)始め、無性に君に会いたいと思いました。会えて良かったと思っています」
そして最後に、「慈しみ深き神の恵み、主キリスト・イエスにある愛とともに、み友達の上にあります様に、祈ります」とありました。(私はそれから、朝夕の礼拝に毎日、彼を覚えて祈り始めました)。
「今、ホスピス・ピースハウス病院で、毎週金曜日の午後、入院患者のごく一部の人々とホスピス付きのチャプレン斉藤さんを交えて、話し合いの時を持っています。もし許されるなら、金曜日の午後、ホスピスを訪ねて下さい。お目に掛かる事が出来るでしょう」
彼はガンの末期でした。私の子供(慶応の内科医)の写真診断では、肝臓の三分の二ないし四分の三がすでに悪性腫瘍でした。彼との久方ぶりの再会の機会、それがこの様な形で与えられた事に私は驚きました。今私は、天に召され様とする彼に、何を語るべきでしょうか?――水曜日、祈祷会で兄姉にお祈りをして頂き、木曜日、一人で断食して祈り、そうして金曜日(十二月二十六日)、勤めを休んで、二宮にあるホスピス(ピースハウス)で行われるキリスト教伝道集会に彼を訪ねました。私はホスピスで、彼が立派に神様キリストのために奉仕する姿を見る事が出来ました。チャプレンが留守のホスピスで、三ヶ月も生きられない人々のために、神の慰めを語っていました。嬉しい事に彼は、私にも賛美のリードをさせてくれました。肺もやられているのか、息遣い荒い飯野君自身が、自動車を運転して、平塚まで私を送ってくれました(これが話ができて会えた最後でした)。「四月になったら、また一緒に自動車を運転して、祈る旅をしよう」とそう彼に語りかけたら、「その時までは保たないだろう」と言うのでした。彼は、四ヶ月は無理だ、その半分の二ヶ月だという事を言っていたのです。それから、私は自宅に帰って、「神様、飯野兄を、いかにもして、四ヶ月守って下さい、そうして、一緒に祈らせて下さい」とそういう祈りを致しました。
祈りは叶えられて、いつのまにか四月になり、私も定年となりました。忙しかった仕事から解放されて、飯野兄を訪ねる事になりました。その前々日に行われた教会の祈祷会では、旧約聖書列王紀下によって、ヒゼキヤについて学んでいました。ヒゼキヤは敬虔で信仰深い王様でしたが、重い病気になり、天国に召されねばならないのでした。其処で、神様にお願いして、命を延ばして、王位の在位にして二倍に変えて戴いたとありました(これは、私の祈り願いと同じでした)。そしてその祈祷会の二日後、先ず飯野家に電話したら、電話の向こうで、ただならぬ様子でした。急いでピースハウスに兄を訪ねたら、彼はすでに昏睡状態となっていました。それは、召される前日でした。私は神様に帰り道、「なんでもっと元気にして、お会いさせてくれなかったのですか?」とお聞きしました。その時私は、神様の声を聴いたのです、『お前は、飯野の余命を二倍に延ばして欲しいとお祈りしたではないか、だから叶えてやったではないか。(正に十二月十六日から四月十六日まで丁度四ヶ月!)それなのにお前は四月になっても、直ぐには来なかったではないか』と。――彼は丁度四ヶ月後である、四月十六日が来ると、次の日、十七日に最後に自分で車を運転してホスピスに入っていたのでした! そしてその五日後に天に召されたのです!(それなのに私は、四月になって一方で祈りが叶えられてほっとし、一方では早く行かなければと気にしながら、他方でまだ忙しいと、自分の都合を優先していたのです)すでに昏睡していた飯野兄の病床の横の机に、聖書が開かれて置かれてありました。不思議な事に、同じあの列王紀下のヒゼキヤの箇所が開かれたままになっていました(何という不思議でしょう)。神様が、『あれから二ヶ月ではなく、二倍にしてやったではないか』と私に仰っておられる様に! ――続いて帰り道、私は神様に聴いて見ました、「日にちの事は判りました。然し、神様、一緒に長く祈らせて下さい、とお祈りした事は、まだ叶えて下さっていないではありませんか?」と。ところがその瞬間、私は閃いて、この祈りも叶えられてしまったという事に気が付いて、愕然としたのです(私はこの瞬間、兄は召されるだろうと思いました)。私は、帰る前に立って、彼の手を堅く堅く握りしめて、長く長く祈っていたのです。その手は大変温かい手でした。そう、私が祈ったのではあったけれども、同時に、彼も一緒に祈っていたのではないか? それは私が神様に願っていた、共なる長い長い祈りではなかったのか、と気づいたのです。その時一緒におられたご家族の方が、「目は見えないけれども、聞こえていますよ」「目は見えないけれども、聞こえていますよ」と、何故かそう繰り返し繰り返し、私に言っていたのでした。――主にある私の親友、飯野正善兄は、召される直前にまで隣人に愛を伝え、死に至るまでキリストに忠実な僕でした。イエス様が、『蒔かれた一粒の麦の種が、地に落ちて死ななければ、実を結ぶ事はなく、また、ただ一粒にしか過ぎない』と言われた事を思います。私達は、無条件、身も心もすべてを、神様に捧げた者である事を確認し、兄の召天に深く頭をたれて、私達の神様に感謝したいと思います。
≪仲 嶋 正 一≫
【所属教会】
日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 港南シオンキリスト教会(野川悦子牧師)
【略歴】
日本キリスト教団東京天城教会(松本頼仁牧師)にて受洗(1949)
旧制浦和高校理科卒業 (1949)
進駐軍総司令部民事検閲部翻訳 (1949)
東京大学医学部薬学科卒業 (1953)
エイザイ研究所初代研究員
米国コロンビア大学客員研究員 Research Associate (1966ー1969)
星薬科大学及び大学院薬化学教授 (1970−1995)
同大学評議員・学生部長・教務部長・植物園長・入試制度検討委員長
・入試広報担当・日本薬学会関東支部幹事・大会準備副委員長・日本植物園協会評議員
現在 同大学大学院名誉教授 薬学博士 (東京大学)
パキスタン首都イスラマバードQuaid-I-Azam大学化学部の指名によって、教授助教授資格審査員 Referee for the evaluation of applications for appointment of Professor and Associate Professor in the Departmeny of Chemistry
【著書】
主イエスとともに(福音出版社)仲嶋正一、啓子共著 1994年11月
キリストの証人として立てられる(百万人の福音1997年3月号、いのちのことば社)
ハーベストタイム TV 出演: 薬学博士・神に立ち返る(1997年6月29日、同 名作集1999年7月2日)
小牧者出版デボーション雑誌 「幸いな人」 コラム執筆担当(1996年11月〜現在まで)
小牧者出版デボーション雑誌 「シャイン」 執筆担当(2000年7月〜現在まで)
1996年〜1999年中央聖書学校聴講生
専門分野 (天然物国「化学と低温電気化学的合成反応)
国際的研究学術論文英語にて 95報告 専門著書 5冊
業績によって、アメリカ Marquis 社 Who's Who in the World 18th Edition、2001年版以降、Who’sWho in Science and Engineering、The Contemporary Who's Who ,に指名される。
◎ 英国 International Biographical Center, Cambridgeより、21st Century Award、International Medal of Honour, One thousand Great Asians, Lifetime of Scientific Achievement Award, Living Legends, International Scientist of the Year 2003, Advisors to International Bibliographical Centreに推薦される。
◎ 米国American Bibliographical Institute より、
World Medal of honour, American Medal of Honour, Great Minds of 21st Century、500 Diastinguished Professors, World Lifetime Achievement Award に推薦される。