1943(昭和18)年、ニューヨークから8年ぶりに帰国してみると、愛する祖国は太平洋戦争の真っただ中にあり、緊迫した空気に包まれていた。戦争が激化するにつれて、以前アメリカにいた人や、アメリカ人を友人に持っていたという人の周囲に憲兵や特高が付きまとい、警察に引っ張られる者が増えてきた。
「お前たちはアメリカのスパイだろう」。彼らはこう脅していろいろと尋問し、時には暴行を加えたりするのだった。
ある時、美喜がタイプライターを打っていると、アメリカに暗号を送っているのだろうと誤解され、引っ張って行かれそうになった。一番ひどい目に遭ったのは、アメリカから来た留学生やアメリカ国籍を持つ者だった。
美喜と知り合いだったあるアメリカ人青年は、体中あざだらけになって澤田家に駆け込んできた。「警官がやって来て家中を荒らし、秘密書類を隠しているだろうと言って脅すんです」「それから、おまえたちはヤソ教だろう。天皇とキリストとどっちが偉いんだ――と言って暴行したんです」。別の者も体のあちこちに傷を作り、唇を震わせて訴えるのだった。
これらの者たちのために何とかしてあげたいと考えた美喜は、「ハワイの晩鐘」という劇を書いた。これは、日本から移民としてハワイに渡った人の苦労や日本に子どもを送った親たちの日本に対する心情をつづったものだった。
この時、劇作家の菊田一夫が演出を引き受けてくれ、また俳優の長谷川一夫も出演してくれることになった。美喜は、これらの芸能人たちにどれほど感謝したか分からなかった。
しかし、第1回の興行が始まると、外務省からいきなりストップがかかった。客は騒ぎ出し、引っ切りなしに電話がかかってきた。
青くなって官邸に駆けつけると、東郷(とうごう)外務大臣は外出しており、いつ戻るか分からなかった。そこで夫人の前に土下座して頼み込み、夫人の一存で上演できるよう許可をもらったのであった。この劇の反響は大きく、心ある人々は戦争に対する憎悪と、アメリカ国籍の者をいじめることがどんなに卑劣で意味のないことであるかを感じ取ったのであった。
一部の芸能人たちも彼女を支えてくれ、灰田勝彦、中村哲、斉田令子といった人々は、送金を中断された2世のためにチャリティーショーをやって募金を集めてくれたのだった。
こうしているうちに、軍部のやり方は次第に狂気をおびてきた。脅迫に耐えかねたある青年が、アメリカ国籍を日本籍に移し替えた途端に、待ってましたとばかりに徴兵の「赤紙」が来た。日本人となったからには、国のために戦って死ななくてはならない運命が待っていたのである。
「もうこの世では会えないと思いますが、どうか体を大切になさってください」。最前線に出されるという前の日、彼は澤田家にあいさつに来た。その長いまつげは震え、まだ子どもの面影が残っているこの青年は、泣くまいとして唇を噛みしめながら言った。
「この世の人生は短いけど、天国で会えますね? きっと会えますね?」。美喜は涙にむせびながら、うなずいた。「ああ、よかった。これで安心して死ねます。自分が何のために死んでいくのか、その意味が分からなくてずっと苦しかった。でも、天国があると聞いて、やっと落ち着きました」
この時ほど、美喜は戦争というものに憎しみを覚えたことはなかった。これらの青年たちは軍歌を歌いながら戦場に出て行き、二度と帰ってこなかった。また、パリ時代の友人である山田菊という女性も警察に引っ張られ、長く勾留された。彼女は日本人外交官を父とし、フランス人を母としたジャーナリストで、日本の文化を紹介した文章が検閲に引っかかったためであった。
戦争が最も激しくなった頃、母の寧子が狭心症で倒れた。もう助からないと知ったのか、枕元に父の久弥と美喜を呼んでそれぞれに感謝の言葉を述べてから、美喜に言った。
「あなたが男の子の着物を着て、暴れ回っていたのが、つい昨日のような気がします」。そして、その手を娘の手と重ねた。「あなたは、何か立派なことをしたいのでしょう? それが世のため、人のためならば、きっとうまくいきますよ」
それから程なくして、彼女は永眠した。
母の死を悲しむ間もなく、美喜は心をえぐるような思いをしなくてはならなかった。最愛の息子たちを戦場に送らねばならなかったのである。長男は学徒出陣、次男は特攻隊、三男は海軍であった。
そして、1946(昭和21)年1月。三男晃の戦死が伝えられた。
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<あとがき>
戦争は、つつましく暮らしている多くの人々の生活を破壊し、その夢や希望を踏みにじってきました。太平洋戦争においては、アメリカ国籍を持つ青年や留学生が警官隊によって逮捕され、暴行を受けたり、脅されたりすることが当たり前のように行われていました。
「もうこの世では会えないと思いますが、どうか体を大切になさってください」。日本国籍を取ったために、戦地に送られることになった日系アメリカ人青年の言葉には、胸を打たれます。
美喜はどんな思いでこの言葉を受け止め、彼を送り出したことでしょう。それ以上に痛ましいことは、彼女は3人の息子をも戦場に送らなくてはならなかったのです。そして、三男の晃は戦死してしまいます。
「戦争はいけません。一番悪いことです」。このガルシア夫人の言葉が今も耳に響くようです。戦争は実に悪魔の所業です。しかし、他国民に対する些細(ささい)な偏見、異なる文化や宗教を持つ人々に対する不寛容が、戦争に対する火種を作ることを覚え、私たちは常に神と人の前に謙虚であらねばならないと思うのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。派遣や請負で働きながら執筆活動を始める。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。動物愛護を主眼とする童話も手がけ、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で、日本動物児童文学奨励賞を受賞する。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。編集協力として、荘明義著『わが人生と味の道』(2015年4月、イーグレープ)がある。