美喜はパリに滞在しているとき、ジョセフィン・ベーカーという黒人女優と親しくなった。彼女はすでに世界的に名の売れたスターであったが、少しも偉ぶらず、支配人にも俳優仲間にも、幕引きや雑役夫にも同じように親しみのこもった言葉をかけていた。
また、貧しい人々への思いやりも忘れずに、興行が終わると、車にお菓子を山のように積んでスラムの子どもたちに配ったり、生活に困窮する者にはお金の援助をしたりするのが常であった。
美喜は、彼女と共にスラムを回るうちに、この優れた女性に対し、尊敬の思いを抱くようになり、2人の友情は生涯続いた。
そのうち、夫の廉三がニューヨーク勤務になったとき、ちょうどベーカーもある劇場と契約してこの町に来ることになった。美喜は再会に胸ふくらませて迎えに行った。
しかし、彼女が船を降りたとき、出迎えたのは何と劇場の支配人と美喜の2人だけであった。そして、タクシーに乗ろうとすると、その運転手は黒人を乗せることは法律で禁じられていると言い、乗せることを渋った。美喜はかっとして、思わず大声で怒鳴りつけた。
「つべこべ言わずにホテルに行くんだよ!」。すると、運転手は2人をにらみつけ、乱暴に車をスタートさせたので、美喜は頭を窓枠にぶつけそうになった。
ところがホテルに着くと、フロアの責任者が困ったように言った。「ただ今ホテルは満室です、奥様」。そこで、別のホテルに行くと、支配人が同じように客室はふさがっていると告げた。
こうして11のホテルを次々と回ったが、全部断られてしまった。ベーカーは涙をためた目で寂しそうに遠くを見ていた。たまらなくなった美喜はその肩を抱いて慰めた。
仕方なく、彼女はベーカーを自分のアパートにつれて行くことにした。ところが、管理人はこう言うではないか。「領事館の官舎は、治外法権だから法律では取り締まれませんが、このアパートの住人は黒人がいると知ったら、皆引っ越してしまうでしょう」
とうとう美喜は、自分が絵を描くために借りたアトリエに最後の望みを託した。すると、管理人は、拒絶はしなかったがこう言った。「表のエレベーターは使わずに、なるべく出入りは裏口を使って夜間にお願いします」
やっとアトリエに荷物を下ろしたとき、こらえきれずにジョセフィン・ベーカーは両手で顔を覆って泣き崩れた。「アメリカに来るのを楽しみにしていたのに。・・・とても愛していたのに・・・」
美喜は、この友人をどう慰めていいか分からず、心の中に人種差別に対する怒りがふつふつと湧き上がるのを覚えた。
いよいよ契約していたジーグフリート・フォリースが舞台げいこに入り、練習が始まると、美喜は彼女が心を傷つけられることがないように、ずっと付き添うことにした。しかし、監督やマネージャーは、見ている美喜が怒りで心が震えるほど横柄な態度で注文をつけた。
同じところを何度もやり直させたり、失礼な言葉を投げつけたり、こづいたりもした。しかし、ベーカーは穏やかにその言うことを聞き、絶えず微笑をもってけいこを続けていた。
「わたしは、自分の芸で白人たちを見返してやりたい」。彼女は、美喜にそうささやいた。
そんなある日。一緒に踊ることになっていた若いダンサーが、黒人と一緒に舞台に出るのは嫌だと言い出したのである。「そんなことをしたら、ボーイフレンドに嫌われてしまいます」
「何だって!」。美喜は叫ぶと舞台に駆け上がり、その生意気なダンサーを怒鳴りつけた。「おまえたちの芸なんて見られたもんじゃないくせに。自分の芸が見劣りするから恥ずかしいんだろう。何さ、トウモロコシみたいな髪をして、口をパクパク開けているきりじゃないか」
すると、そんな美喜の手を、ジョセフィン・ベーカーは温かな手で包み込むのだった。
やがてフィナーレになったとき、今度は別の男優がこう言った。「あんた一幕前にホテルに帰ってくれないか。このフィナーレは、白人だけのほうがいい」
その時であった。ベーカーは、きっと姿勢を正すと、つやのある美しい声でこう言った。「あなたたちの白い皮膚の下には、黒い心がある。そして、わたしの黒い皮膚の下には、真っ白い心がある」
そして、2人は手を取り合って、アパートに向かった。その後ベーカーは、この劇団との契約を破棄し、フランスに帰ってしまった。
*
<あとがき>
人種差別は、差別される黒人を不幸にするだけでなく、差別する白人に対してもモラルや思考能力を低下させ、人格を破壊させるものであることは、かのキング牧師も指摘しています。
澤田美喜の生涯最大の親友であったジョセフィン・ベーカーが、アメリカでどんなにひどい仕打ちを受けたかを思うと、私たちは胸が痛くなる思いです。
黒人の中には、素晴らしい才能を持つ俳優やミュージシャンなどが数多くいますが、欧米の人たちは、その才能は認めても、人種的に彼らが劣っていると考え、排除するのです。これは、長年にわたって培われた偏見でありました。
しかしながら、ベーカーが言った言葉、「あなたたちの白い皮膚の下には、黒い心がある。わたしの黒い皮膚の下には、真っ白い心がある」――不屈の精神と誇りに支えられたこれ以上崇高な言葉が他にありましょうか?
この言葉に、彼女を侮辱する人たちは心を打たれ、襟を正したのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。派遣や請負で働きながら執筆活動を始める。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。動物愛護を主眼とする童話も手がけ、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で、日本動物児童文学奨励賞を受賞する。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。編集協力として、荘明義著『わが人生と味の道』(2015年4月、イーグレープ)がある。