1. 内村と新渡戸に至りつくまで
私の家は仏教(浄土宗)を江戸時代から奉じ、神道(諸々の神々)をも併せ信じる二重信仰でした。家には大きな仏壇のほか十を超す神棚が家の然るべき所にあり、毎日炊き立てのご飯と新しい水を供え、花と榊(さかき)を飾っていました。
ですから、家に聖書は1冊もありませんでした。けれども、子ども用の読み物の分厚い300ページ以上ある本の中に、物語に仕立てた聖書の書が、挿絵を挟んで含まれていました。
たとえば「ダニエル書」の物語は、ライオンがその檻に投げ入れられたダニエルをまったく噛もうとしないことは挿絵にもなっており、またダンテ『神曲』冒頭で、ダンテがヴェルキリウスの案内で、真っ暗な深い森を通ってゆくとき、ふと手を伸ばして触れた木の枝を折り取ったところ、木が叫びを発して、「なんの恨みがあって私を裂くのだ!」と言ったところなどは、今も覚えています。小学3年ごろのことです。
その本はまた、ロングフェローの詩「ハイアワサ」というインディアンの伝説物語詩も含まれていたことを覚えています。
聖書を手にしたのは、敗戦後旧制中学4、5年のころ、文語の詩篇付新約聖書と旧約聖書を買ったのが初めてです。そして、1949年大学に入ってから、図書館の内村全集を聖書と併せて読み、キリストを救い主と信ずるに至ったのです(集会や教会にはゆかず)。
そして、1963年4月大阪市立大学に奉職すると同時に、恩師坂田徳男先生の開いておられた火曜研究会の講師となり、漱石、鴎外、武者小路、矢内原忠雄、ボンヘッファーにつづき、新渡戸稲造を29回講じ(1968年2月~70年12月)、それが『新渡戸稲造―生涯と思想』(1980年)となって出版されたのでした。
2. 新渡戸稲造の信仰
① クェーカー
新渡戸稲造はアメリカ東部へ留学中の1886年12月(24歳)、ボルティモア友会会員として認められ、正式に友会徒となりました。日本人最初のクェーカーです。
クェーカーとは震える人という綽名(あだな)で、ジョージ・フォックス(1624~91)が、1646年にイギリスで始めた会派です。フォックスは靴の製造を仕事にしていましたが、聖書を読み、祈り、内なる光(Inner Light)の啓示に接しました。
神の光は万人の心の内に差し込んで働いている。神の真理は聖書以外にも啓示される。啓示は信徒に声(Voice)となって与え示される。煩雑な儀式はまったく必要ない。ひたすら沈黙のうちに神の顕示を待てばよい。教会の制度などはまったく不要であるというのです。
すでにイギリス国教会が成立していたイングランドからは迫害され、オランダ、アイルランド、北米に伝道し、のち信徒は北米移住を試みましたが、すでに先に移住していたピューリタンに迫害されて、さらに南の方へ移住地を移すほかありませんでした。
クェーカーは先住民族の土地を奪うのでなく、正当な代金で買い取り、平和な関係を維持しました。また、平和主義を守って、誰に対しても武器攻撃をしませんでした。
西部開拓が進むにつれ、そちらへ移ったクェーカー教会は、やがて沈黙の礼拝をやめ、他会派と似たプログラムで礼拝するに至ります。
いまクェーカーは、イングランド、アメリカ合衆国、そしてケニアが主な普及地です。日本では友会徒はもう200人以下ですし、友会の創立した普連土(ふれんど)学園にも友会徒の教員は1人もいません。
② 恵みは遡って働く
新渡戸稲造が創立当時の国際連盟事務次長を任期満ちてやめる3カ月前、1926年9月14日、スイスを去る前にジュネーヴ大学で英語で行った講演「一日本人のクェーカー観」(A Japanese Views of Quakerism)で Retroactive Grace という語を使ってクェーカーの信仰を説明しています。
この英語は新渡戸の造語で「逆行的恩恵」と訳しても、「遡行する恩恵」と訳しても、もう1つぴったりしません。私は小見出しに使った「恵みは遡(さかのぼ)って働く」と訳しています。
キリストが人となってこの地球に降られたのは、父なる神の思し召しに従われてのことでした。神の恵みは、神が天地を創りたもうたときから、寸時も絶えたことはありません。人間の幾多の背き、恵みへの裏切りにもかかわらず、神は人間の救いに心を砕いてこられ、ついに独り子イエスを人として遣わして、その救いを成就されたのでした。
イエスは父なる神の御旨に従い、十字架上に父の愛を実現し、人類の罪すべてを負って死に、父の御心により復活させられ、神の恩恵をここに成就されたのでした。
この神の恵みを信じ、キリストのあがないを仰ぎ受ける者は、キリスト信徒として救われます。しかし、キリスト以前に世を去った、多くの人類はどうなるのでしょうか。釈迦の教えを信じ、慈恵の働きを世に為し、孔子の説き勧めた仁を体現し、難事は先にして利益は後にして生きた人たちはどうなるのでしょうか。
クェーカーの教えとして、新渡戸が「恵みは遡って働く」という言葉を造ったのは、まさにキリストによって示された神の恵みは、人類史の初めにまで遡って働き、すべてのありとあらゆる人を救うことをはっきりと示すためでした。
この神とキリストの壮大な福音に制限を加える西洋的付加物は除去しなければなりません。福音は世界のすべての人に開かれており、人類の宗教性は最奥において1つであることを示すのです。それ以下のものは福音ではありません。
③ キリストは全人類のため
キリストは、史上この地を歩んだ凡(すべ)ての人類を救うため、神の子としてマリアから生まれられたのです。それゆえ、キリストの歴史は宇宙・人類の歴史全体に関わるのです。そして、キリストの死は全地を聖(きよ)めたといいます。
こうして人類はすべてキリストのこの事業の分担者なのです。ですから、キリストの名を知らぬ者も、知る者も、この恵みにあずかり喜ぶのです。それは神とキリストは人類のすべてを知っておられるからです。
してみると、人は民族・時代・地位・文化のいかんにかかわらず、すべてこのキリストの絶対的な救いに包まれているのです。そこに宗教的寛容の根拠があります。
寛容こそは最も神的な徳です。神の名を悪用して他者を排斥し、殺しさえするのは、神に最も背く悪徳です。新渡戸稲造のようにこの寛容に確(しか)と立つ人は、きわめて柔軟に見えつつ、千歳の岩により頼んで小揺るぎもしません。
④ 神秘主義
クェーカーの、そして新渡戸の信仰の大切な特徴として、神秘主義があります。
神秘主義はこの地上の自然と人間のすべての営みを神の働きと見るものです。微々たる自然と人間の中にも、神の愛と生命がたえず働くと認めるのです。
日本で、あるいは東洋で神秘主義といいますと、何か山奥や庵室にこもって、人と交わらず、理性も働かせず知性の示しにも従わない隠遁生活を趣味とするのを思い浮かべますが、真の神秘主義はそうではありません。
そもそも真の宗教の本質は、決して感傷的、熱狂的ではなく、また瞑想的でもなく、むしろ実行的なのです。
新渡戸もそうでした。懐疑心つよく、常識家で、活動的でした。真の神秘主義はむしろ意志の働きを示します。人の意志を神の意志に合致せしめて働くことです。真の神秘主義は、決して神との合一という超自然主義的歓喜を追求することではありません。真の神秘家は何一つ自己には求めない人です。
新渡戸は札幌農学校を卒業して母校に勤めていた際、札幌の川岸で月影に照らされて祈っているとき、神の声を聞いたことを、東京大学に行っている宮部金吾に宛てた手紙(英文)に書き留めています。メリー夫人もクェーカーで、やはり神秘経験を味わった人ですが、のち離れている2人が同じ経験をしたことも手紙にあります。
神秘家こそが実際家であることを示す好例は、あの『パンセ』を書いた、パスカル(1623~62、フォックスと近い生まれ年!)です。
パスカルはフランスきっての神秘家かつ実際家でした。父が税務にたずさわっていたので、父の仕事の助けにと税務用計算機を発明しました。この機械は今も残されています。町の貧しい人を助ける資金にと、乗合馬車をつくり、その利益を救貧事業に充てました。友人から賭金配分のことを尋ねられ、確率論を発見しました。
新渡戸は1930(昭和5)年6月1日から、英文大阪毎日にほとんど毎日、コラム記事 Editorial Jottings(「編集余録」)を死んだ後まで連載しました。同紙は土日が休刊ですし、新渡戸が遠出をするときは別の記事で代わりにしましたが、1933(昭和8)年10月15日(アメリカ日付)の死の日までに、実に731篇が紙面を飾ったのでした。
この中に新渡戸より15歳ばかり年上のオキナが登場するものが35篇あります。新渡戸はこのオキナの口を借りて、警世の言を語ったり、ユーモアをただよわせたりします。1932年4月15日の「汝信仰少なき者よ」を見ましょう。
オキナは静かに言います――「私は地球から数歩退き、この小球を手中にして虚空に立った。私はいつも地球が好きで、よくそれで遊んだものだが、こんどは地球を、水晶占師のように注意して、その中味を詳しくのぞいて調べてみた。/・・・ふつう小国のまわりに、いつも光る所がいくつかあった。だからこんども同じことだと思っていた/ところが驚くべし、地球にはどこにも光るところがなかった。私はそれを投げ打ち砕こうと思った。あわや砕こうと手を挙げたとき、強い“力”が私の手を把(とら)えた。そこで私は素直に、地球を元の暗い小さな穴へ戻した。だから今私をそこでごらんになるのだ。」/その力とはなんだったのですか、との私の問いに答えて、オキナはあまりはっきりしない声で言った――「信仰だよ。」(全集20巻451ページ)
新渡戸は日本唯一のキリスト信徒神秘家でした。
3. 内村鑑三の信仰展開
内村鑑三は新渡戸のように若い時に定まって、生涯それを深めてゆくというのとは違い、信仰の重要な要目を、体験を積み、年を重ねるとともにしっかり受け止め、いったん受け入れればそれを守り続けてゆくという信仰展開を示しました。
① 十字架の救い
札幌農学校1年に入学して、先輩1期生の烈しい宣教にさらされ、2期生6名と共にハリス宣教師から洗礼を受けてキリスト信徒になった内村でしたが、その信仰の11の内容については、十分の認識は得ていませんでした。
ですから結婚し、別居し、自らの咎を思うにつけ、アメリカに留学している広井勇、新渡戸稲造らに心ひかれもして、内村も太平洋を渡りました。
エルウインの障害者施設で粉骨砕身して働きましたが平安は得られず、東部へ移ってアマースト大学に入り、救いの道を求めましたが、いつかな魂の安らぎは得られませんでした。その時、アマースト大学学長のシーリーの助言により平安を得ることができたのです。
シーリーは言いました、「己れに省みることはやめて、十字架の上に君の罪を贖(あがな)いたまいしイエスを仰ぎみよ」と。自ら自己の罪をほじくり、調べ、理由を悟り、解決しようとして無益の努力に疲れ果てていた内村に、シーリーは「仰瞻(ぎょうせん)の信仰(ひたすら仰ぎみる)」を伝えたのでした。内村はこの十字架の救いを受けて真の内村鑑三となりました。1886年、26歳の時です。
② 復活
次に内村が信仰の新しい局面を展開したのは、長女ルツ子の死を通してでした。ルツ子は内村があの教育勅語不敬事件で第一高等中学校を逐(お)われ、妻加寿子が死に(1891年4月19日)、日本全国を北海道から九州まで、職を探し求めては失い、流浪して京都で与えられた妻静子から生まれた子でした(1894年3月19日)。
そのルツ子が実践女学校を卒業して4カ月後死病を得、1912年1月12日17歳で召されたのでした。内村51歳の時です。
生涯の仕事となる「聖書之研究」誌を発刊して11年、読者全国にあり、いま1人の子祐之も14歳、今井館も建ち、著作も年をおうて出、一高・東大をはじめ首都に集う学生も会員となり、伝道大いにふるうときに、愛する独り娘が命を失ったのです。内村の渾身の祈りも聴かれませんでした。
しかし、内村は独り娘の死によって、自分の内に残れる野心を葬り、彼女を天国に嫁入りさせて、天国の福音、復活・来世の命にのみ生きる者とせられました。
ルツ子を葬り、身内代表として最初の土をその柩(ひつぎ)にかけるに当たり、内村は土を握った手を高々と天に挙げ、「ルツ子さん万歳!」と叫んでその土を投じたのでした。その場にいた矢内原忠雄は18歳、この内村の姿に「キリストを信じるとは大変な事だなあ!」と深く感じたと書いています。
③ 再臨
1914年7月28日にオーストリアが皇太子を殺したセルビアに宣戦布告して、第1次世界大戦が始まりました。ヨーロッパはスイス、スウェーデンなど少数の国が中立を保ちましたが、ほとんどの国が次々と英・仏・露などの連合国側と、独、オーストリア、トルコなどの同盟国側とに分かれ、1918年11月まで対戦は続き、当初中立を宣言したアメリカも、ドイツが17年2月に無制限潜水艦戦を開始するに及んで、4月にドイツに宣戦、日本は日英同盟を理由にドイツに当初から宣戦、青島と南洋群島で戦い、軍艦を印度洋、地中海に派遣しました。
大戦は連合国側に死者514万人、傷者1280万人、同盟国側には死者339万人、傷者839万人の人的被害を与え、戦車、航空機、飛行船、毒ガスの利用で厖(ぼう)大な被害を及ぼしました。
この戦争の初めから、内村は、札幌農学校以来培われてきた進化論的文明観・歴史観による人類の向上進歩、外交努力、とりわけキリスト教の感化によって、やがて戦争は根絶されるという考えに、大きな疑問を覚えるに至りました。アメリカ参戦は内村56歳の時でした。
しかし、戦争の永続に伴い、アメリカの友人D・C・ベルから永らく購読をやめていた「日曜学校タイムズ」を再び贈られ、「キリストの再臨ははたして実際問題ならざるか」を読み、重大な示しを受けました。
進歩主義史観は誤りである。戦争は世の終わりキリストが再臨されるに及んで終わる。キリスト教国が新しい強烈な武器をつくり、互いに殺し合うのは、真のキリストの福音から外れているからである。歴史はかかる人間の努力によって完成されるのではない、神の御意にかないキリストが来りたもうて初めて完成する。それならそれまでは戦争反対等の人間の努力は不要かというとそうではない。神が望まれることは、人は努力して行うべきである。そのことが神の御意にそうゆえんである。神を喜ばせまつりその御旨の実現を早からしめるのである。人間の努力と無力はキリスト再臨により全うされる――内村はこう考えたのでした。
④ 最後の展開
内村は一身の、家族の、世界の上に起こった恐るべき具体的出来事に当たって、このように、具体的な神からの示しを受けて、信仰の真理をさずけられ、それらの真理を守って以後の生涯を生きました。
しかし、その最晩年に至り、内村はさらにもう1つ大きな信仰の飛躍・展開を志したと考えられます。内村68歳、死の半年前、1929年のことです。
この年の夏。内村は軽井沢に避暑に行っていましたが、ある弟子から手紙を受け、「先生はご病気だから塚本虎二氏にあとを譲って、休息されては」という主旨に、驚きかつ憤り、そこに1つの誤解が生まれ、秋からはその処理に腐心し、病気療養も思うようにはかどりませんでした。塚本はこの手紙とは無関係でした。
その時、死の半年前、内村は公開日記に2度、新展開を志すと思われる短文を書き、また、ついでやや長文の一文を遺稿として書き残します。
(ⅰ)日記(1929年10月2日)
全人類教会主義こそ、無教会の積極的半面である。全人類を1つの教会、キリストがその首長とみるとき、もはやそこに選民と非選民、信者と不信者の区別はない。そんな区別は間違いであるというのです。宇宙・人類の全体を1つの歴史として、キリストはそれに関わるというのです。
(ⅱ)日記(1929年10月24日)
無教会はこの世において実行不可能主義である。実行可能ならすぐに教会となる。キリストの教えもしかりである。不可能を実行せんと努力、奮闘するところに、尊さがある。無教会はキリストの再臨を待って、その実行を見る主義である。無教会は理想である。この世で成功を収めようとする小人と俗人は、これを抱くことはできない、と説いています。
(ⅲ)預言研究の必要
この一文は1929年11月20日稿とあるものの、生前発表されず、内村の死の翌月、30年4月号に遺稿として発表された、きわめて重要な一文です。
内村は言います――信仰は内と考えがちである。信仰とは目に見えざるものを信ずることだという。しかし、見ずして信仰は起こらない。それゆえにこそ、キリストは人の形をとり、人間となり、救いを実現したもうた。
人は天然を通して天然の神に接し、摂理によりて神の恩恵に与(あずか)る。霊は必ず物をもって現わる。宇宙・人生より離れたる信仰は雲か煙の如し。
外、神の万物総称してこれを天然といい、神の行いの道筋を歴史という。それゆえクリスチャンの信仰は、信仰のみの信仰ではない。大宇宙、大世界を参考として立つ信仰である。
宇宙と世界の過去の出来事、これを歴史といい、現在の出来事、これを新聞が報ずる。そして、未来の出来事を告げるのを預言という。歴史は神の御意の現れである。そして、神はまず預言をもってそれを予(あらかじ)め告げ給うのである。
かく見るとき、聖書は一書ではない、三書である。文字に書き現された「聖書」と、天然と、歴史とである。そして、歴史の鍵が預言である、と内村はこの遺稿で述べているのです。
4. むすび
一高で新渡戸稲造の薫陶を受けていた学生が、その紹介で内村鑑三のもとで聖書を学ぶに至った者は少数ではありません。その弟子たちの1人が内村に対し、「新渡戸先生の信仰でいいのですか」と尋ねた際、内村は黙して答えなかったと伝えられています。
これは、「それでよいのだよ」と言えば、若い弟子たちは誤解して、内村から信仰を学ばなくなるかもしれないし、逆に、「いやあれではいけないのだ」と答えれば、弟子は新渡戸の信仰の深い消息を分かろうともせず、若気のいたり、新渡戸の恩を忘れ去ってしまう恐れもあり、内村は沈黙していたのだと推測されます。
沈黙はもちろんそのままの肯定ではありません。さりとて、沈黙はまた全面的否定でもありません。内村が若い弟子たち以上に新渡戸の信仰を深く理解していたことは確かです。そこに、この沈黙の意味があろうかと思います。
そして、その死の半年前において、内村がここに挙げた3つの信仰の消息文において、自らの信仰の一大飛躍的発展を試みるよう上より示され、無教会を超える信仰の巨大な一歩を、遺言として書き残したのだと、私は考えるのです。
あと半年、もしくは4カ月で世を去らねばならぬ内村鑑三が、自分で十分解明できなかったこの一歩こそ、「恵みは遡って働く」「歴史全体を救うキリスト」「人類はキリストの事業の分担者」そして「実行的神秘主義」をめぐって、この札幌農学校出の2人が、主のみもとで、心から話し合って、感謝して手を握り合う「真理」だと、私は確信するのです。
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