片柳弘史神父(カトリック宇部教会主任司祭)の指導のもと、「愛することは、ゆるすこと」をテーマにアレルヤ会四旬節1日黙想会(カトリック東京大司教区アレルヤ会主催)が8日、カトリック東京カテドラル関口教会マリア大聖堂(東京都文京区)で行われた。
まず片柳神父は、「キリスト教は愛の宗教だが、神の愛はそれを実際に体験しなければ分からない」と語った。自分も大学生の時に洗礼を受けたものの、キリストの愛が何であるか、よく分からなかった。そんな時にマザー・テレサの活動を知り、直接その活動を見れば何か分かるかもしれないと思って、インドのコルカタ(カルカッタ)に赴いたという。
マザーの施設でボランティアとして働く中で、キリストの愛を体現するマザーからじかに愛を学び、さらに自身の生き方までもマザーによって決定づけられたという片柳神父。この日の講話でも、自著『世界で一番たいせつなあなたへ―マザー・テレサからの贈り物』『あなたのままで輝いて―マザー・テレサが教えてくれたこと』(共にPHP研究所)からマザーの言葉を引用しながら、イエス・キリストの愛を伝えた。
第1講話では次のように語り掛けた。「誰かを愛するとは、自分の思ったとおりにならない相手をゆるし、受け入れること。自分を愛するとは、自分の思ったとおりにならない自分をゆるし、受け入れること。愛するとはゆるすこと、ゆるすとは愛することだ」。またルカ福音書15章にある「放蕩(ほうとう)息子」のたとえから、「すべて神様にゆだね、不完全な自分であっても愛してくださることが分かったとき、周りの人たちのことも受け入れることができる」と伝えた。
片柳神父は、「悪魔は、私たちを成功させてどんどん思い上がらせ、十分思い上がったところで現実を突きつけてそこから落とす。そのショックで私たちは『自分はダメだ』と思ってしまう。へりくだって謙遜な心でいれば、悪魔のつけいる隙(すき)はない」と話す。さらにマザーの言葉から、「愛されるために、自分と違う者になる必要はなく、ただ心を開くだけでいい」と述べ、「私たちは神の作品であり、一人一人が神の最高傑作であり、その状態でこの世に送り出されている。人間の命に優劣は存在せず、ただできることがそれぞれ違うだけ」と力を込めた。
第2講話では、相手をゆるすことについて語った。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)という聖書箇所から、「自分の思いどおりにいかないとき、相手には相手の思いがあることを忘れてはならない」と、他人を思いやることの大切さを語った。また、どんな人の心にも、自分を認めてもらいたいという思いがあり、そこに優しい言葉を掛けてあげることで平和が生まれると話した。
また、「ほほ笑みが人の心を優しい心に変えていく」と語り、マザーの「1日5回、本当にほほ笑みかけたくない人にほほ笑みかけるようにしなさい」という言葉を紹介した。さらに、「悪魔の誘惑の手口をよく知っていれば、そこに陥ることはない」と述べ、特に思い上がらせる手口について警告した。その他にも、「私はこれが好きで、あの人はあれが好き。ただそれだけのことです。好みで人を裁いてはいけません」というマザーの口癖を伝えたうえで、「相手が大切にしているものだから、きっと価値があるはず」と言い、それぞれの違いを大切にし、互いから学ぶことで共に成長してゆくという神のダイナミズムについて語った。
第3講話では、「神の手にゆだねる」ことに焦点を当てた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)というイエスの言葉から、「すべて神にゆだねることができたときに、天国の門が開かれる。人間はほしいものを求め、神は必要なものを与える。私たちは、自分が本当に必要なものが何か分かっていない。思いがけないことが与えられているからこそ、人生は私たちの想像を超えるほど素晴らしいものになってゆく。神のご計画からすれば、私たちの思いは本当にちっぽけなこと」と語った。
そして、「最後に手に残るものは、手に入れたものではなく、誰かに与えたときに生まれた愛だけ。自分のために使った時間は消えていくが、人のために使った時間は愛となって永遠に残る。マザーはすべてを与え、すべてを天国に持って行った」と締めくくった。
四旬節黙想会を主催したカトリック東京大司教区アレルヤ会(森脇友紀子会長)は、司教、司祭、引退司祭、神学生らのために祈りの輪を広げ、支援活動を行うと同時に、キリスト教徒がまだ少数の日本で、肉親を司祭としてささげた家族のためにも祈っている。なお、四旬節黙想会は毎年会場を変えて行われている。