シアトル日本人バプテスト教会の牧師を退いて最近帰国したばかりの崎山幸男氏。16歳で受洗して以来、「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)の御言葉を信じて、71歳になる現在まで歩んできた。「扉を開けると、また別の扉が用意してある。その扉をまたたたくと、イエスさまがそれを開いてくださる。そんな人生だったように思う」と半生を振り返る。
崎山氏は1946年、大分県に生まれた。海軍出身で、戦後、自衛官になった厳格な父、教育者であった母のもとで育った。成績は常に優秀で、中学、高校は、鹿児島の超難関校ラ・サール学園に進む。その時のことを、「頑張ることによって、皆の期待に応えたいと思っていた」と語る。
転機は高校1年生の時。突然、学習意欲を失った。何もやる気が起きない。教師に反発するようになり、成績も急激に下がって、下から数えた方が早いような順位にまでなってしまった。驚いた担任が両親を学校に呼び、三者面談が開かれたが、原因を突き止めることはできず、「自分でも何が起こったのか、よく分からなかった」と崎山氏。
高校2年生の時、寮の友人に誘われ、近くの教会で行われた特別伝道集会へ。そこでイエス・キリストに出会い、友人と共に洗礼を受けた。キリストは、頑張らなくても自分を愛し、ありのままの自分を受け入れてくれる存在だと知ったのだ。それ以降の高校生活は、それまでの人生の中で一番楽しかった。
東京教育大学に進み、卒業後に千葉県で教職に就いたものの、当時の中学義務教育のあり方に疑問を持ち、仕事に情熱を持つことができず、2年で退職。父親が19歳のとき、海軍の練習艦隊で米国に訪問した経験があり、崎山氏もその影響で子どもの頃から「いつか米国に行きたい」と考えていた。その夢を実現するため6回転職し、7回目の転職先だった自動車部品製造会社から、米国オハイオ州に新設された工場に派遣されたのが1999年、崎山氏43歳の秋だった。
オハイオでの生活が10年たった頃、崎山氏に転機が訪れた。米国で大学教育を受けていた子どもたちが日本に帰国したのを機に、日系企業勤務に終止符を打ち、現地で購入していた土地家屋を売却して、ワシントン州シアトルに向かう。きっかけは、日系米国人牧師との出会いだった。
恒久的な仕事に就けず、貯金も底を尽きそうなある日、見ず知らずの崎山氏を快く受け入れてくれたその牧師は、崎山夫妻のために住む家を用意してくれた上に、「神様は君たちのために何か道を用意している」と励まし、さまざまな面で力になってくれた。
ところが、この牧師が心臓血管バイパス手術後の経過が思わしくなく、急逝。信徒として何度か説教奉仕をしていた崎山氏に、彼の牧会を引き継がないかとの打診があったが、自分には召命がないといったんは断った。
その数カ月後、やっと再就職を果たした有名IT企業で大規模なレイオフがあり、失職。教会から再度の招聘(しょうへい)を受け、また主任牧師から「1年試してみれば、召命の有無が明らかになるはず」と説得されて、家族の祈りの支えも受けつつ信徒牧師としての第1歩を踏み出した。55歳の時だった。
シアトル大学神学部修士課程に、「日本人宣教のため」として75パーセントの奨学金付きで入学を許された。牧会をしながら神学校の勉強を続けることは決してたやすいことではなかったが、7年をかけて62歳で無事に卒業。「毎週の礼拝で語るべき言葉がその間も与えられてきたことが、私の『召命』だったのだと思う」と崎山氏は話す。
2013年には96歳で父が召天。それまで一切弱いところを見せなかった母が「いつ日本に帰ってきてくれるの」と崎山氏に訴えた。他にもさまざまな要素が重なり、14年近くの牧会に終止符を打つ時が来たことを悟ったという。
2015年春に帰国して母と一緒に住むことになった。現在は市川大野キリスト教会の協力牧師として奉仕している。
帰国後にもう1つ扉が用意されていた。娘の結婚だった。相手は受刑歴のある男性。「そのことをメールで知らされたとき、葛藤はなかったのか」と尋ねると、穏やかな口調で「あんまりないね。娘が選んだ男性だから。前科があるとかないとかよりも、クリスチャンの男性を選んでくれたのは何よりもうれしい」と話す。
異国の地で多くの経験を積んできた崎山氏は言う。
「すべてのことは、神様がいつも備えてくださっていた。つらい時もあったが、求め、探し、たたくと、いつも最善が用意されていた」
崎山氏は8日、「当事者の父親となって―放蕩(ほうとう)息子のたとえ」と題して講演会(NPO法人マザーハウス主催)を行う。詳細はホームページを。