映画「沈黙」が公開されて2週間が過ぎた。すでに多くの人が鑑賞し、各教会でもさまざまな意見が交わされているだろう。
映画界の巨匠マーティン・スコセッシ監督が日本宣教の歴史の一部を描いたことで、その反響も大きく、新聞、雑誌、テレビなどのメディアでは多くの感想が紹介されている。
そのような中、この映画を観た在日外国人たちはどのような感想を持ち、日本の若者たちはこの作品をどう受け止めたのだろうか。
4日、東京都中央区のロジャー・ラウザー氏宅で「『沈黙―サイレンス』映画deディスカッション」と題された集会が開かれた。主催したのは、コミュニティアーツ東京の米国人音楽家で宣教師のラウザー夫妻とグレースシティチャーチ東京。夫妻は月に1度のペースで、「Art(芸術)」「Faith(信仰)」「Life(人生)」をテーマにディスカッション形式のイベントを開催している。集まったのは、宣教師を中心に、米国・英国から来日した外国人や、グレースシティチャーチに集う青年ら約30人。
夫のロジャーさんは宣教師として来日する際、映画の原作となった遠藤周作の『沈黙』を読んだという。「日本人の信仰とはどういうものか、この小説を読めば分かる気がしたのですが、最初は全く理解できませんでした。そればかりか、日本に来るのが怖くなったのを覚えています」。そう話すと、参加者から笑いが起こった。
しかし、転機となったのは2011年3月に起きた東日本大震災。この災害をきっかけに東北へ何度も足を運び、支援活動をしていくうちに、日本人が苦難に直面したときの心の内を少しずつ理解できるようになったという。
ロジャーさんは、「映画は、必ずしも問いに対して答えを得られるものではないと思う。いわば、アート(芸術)のようなもの」として、ディスカッションをスタートさせた。
試写会で映画と俳優らによるパネルディスカッションを見たというロジャーさんは、「役者たちがほぼ全員、話す前に『私はクリスチャンではないのですが・・・』と断ってから話していたことに違和感を覚えた」という。それは日本人には当然のように思われるが、外国人の多くがこの話に大きくうなずいた。
米国人の男性は、「十数年間、日本に住んでいるが、日本の映画館はいつも静かでつまらないと感じていた。アメリカの映画館では、盛り上がる時は、観客も一緒に声を出して盛り上がる。しかし、この『沈黙』は、まさに日本の映画館のためにあるような作品。静かに映画を鑑賞して、静かに考えることができたように思う」と感想を述べた。
「踏み絵」についての話題に移ると、議論も次第に活発になった。
「踏むか踏まないかは、信仰の持ち方や年齢、立場によって大きく変わるのかもしれない。例えば、カトリックとプロテスタント信仰によっても大きく違うのでは」
「神父や牧師が踏むことによって、もしかしたら周りの信徒たちのつまずきになるのではないかと感じた」
また、「踏み絵はただの偶像だから、私は踏んでもいいと思う」という意見がある一方、「当時の『隠れキリシタン』の様子を見ていると、さまざまな『形』に『信仰』を表す人が多かったようだ。映画の中にも、パードレ(宣教師)が船で着くやいなや、彼らが持っていた十字架やロザリオまで欲しがり、それを非常に大切にしていた様子がうかがえた。それが良いか悪いかではなく、『形』に信仰があるとすれば、踏み絵は彼らにとって大きな意味があったのではないか」と話す参加者もいた。
牧師からは、「今の日本社会で、処罰はないにしても、私たちは『踏み絵』を踏まされる場面があるのでないか」という問い掛けもあった。例えば、葬儀や墓参りなどの際に、「形だけだから」と焼香を勧められるなど、信仰が問われる場面は現在もある。その時、私たちクリスチャンがどう考え、どう行動するのかが大切だというのだ。
映画の中で何度も踏み絵を踏み、宣教師を裏切るキチジローについても次のような意見があった。
「キチジローは、何度も何度も踏み絵を踏み、そのたびに懺悔(ざんげ)をするが、また裏切るということを繰り返している。しかし、キチジローはまるで自分のようだと思うこともある」
それに対して、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(ローマ14:1)という御言葉から、「キチジローの中に信仰はあったと思う。だから、パードレは何度でも受け入れたのでは」と話す参加者もいた。
「神様の『沈黙』は、本当に沈黙だったのだろうか。時に私たちは、本当の沈黙をしないと、神様の声が聞こえない時がある。しかし、本当の沈黙を経験したのは、私たちの罪のために十字架上で苦しまれたイエス様だけだったのでは・・・」とロジャーさんはこの集会を締めくくった。
来月は、3月4日に同じく映画についてのディスカッションを行う予定。詳しくは、ホームページを。