「死」は人間にとって普遍的な問題。その一方で、死は時代や場所によって異なる固有の問題を持っている。その中でキリスト教がどのように応え、どんな役割を担っていくか。そのような問い掛けで始まる本書だが、決して学問的にキリスト教における死や葬儀を語るものではない。「死といのち」の問題をめぐって、日本人にキリスト教の福音の意味を伝えると同時に、日本のクリスチャンがキリストの救いをしっかり受け取っていけるようにという著者の強い思いを、優しさにあふれる言葉で紡いだ1冊だ。
著者は、日本ルーテル神学校校長でルーテル学院大学教授の石居基夫氏。同大のデールパストラルセンター所長も務める石居氏は、10数年にわたり「キリスト教の死生学」に取り組んできた。死を普遍的な問題と捉えつつも、時代や場所によって異なる固有の問題を持つとし、こういった「死の問題」に対して、「現代の日本」を具体的なコンテキストにおいて、キリスト教がどのように応え、役割を担っていくか、実践的・牧会的な視点をもって、看取りや悼み、死の準備教育などを通して語っていく。
本書の前半では、「死の備え」について詳しく触れられている。この中で著者は、死の出来事はいつでも個人の問題であると同時に、共に生きている人々によって経験される「二人称の死」であると述べ、死に備えるということが、本人の問題としてだけでなく、さまざまな関係を生きてきた人々の問題でもあることを指摘する。そこには、看取りや、突然の死に直面することも出てくるが、このデリケートな問題に対して、著者は、牧師としての体験を通して、神の恵みを信頼すること、遺された者たちが神の確かな慰めと希望を受け取れるようにすること、そして、寄り添う祈りが求められることを強調する。
また、「キリスト者の死生観」では、葬儀の時に困らないようなノウハウ的なことが書かれている。その中で注目すべきは、信仰を持たないで亡くなった家族についての問題に触れていることだ。「他者の死について私たちが心を砕くことこそ、キリストのいのちを生きる信仰者の働きなのである」という著者の考えから、信仰を持たないで亡くなった人たちの救いについても、神に祈ることは間違いではないと思わずにいられない。また、「神様はどんな私たちであっても恵みと愛を持って招いてくださる」と語る著者に慰められる人は多いだろう。
そして、日本的死生観とルターの死と復活の理解ということで、日本人にとって強いシンボルである「桜」に対して、キリスト教のシンボルとして復活の「ゆり」を対比させ、日本人の死生観とキリスト教の信仰との出会いを探っていく。その中で著者は、「復活の白いゆりに象徴される永遠のいのちは、他者のために生きる信仰者の在り様を示すのであって個人主義ではあり得ない」と力を込める。そして、「キリストだけが一人一人を必ず救い、生かしてくださる。その死にあっても、見捨てられることのない永遠のいのちへ希望を持つことができる。その根拠はただキリストのみにある」と断言し、キリストと共にあることの平安を示してくれる。
さらに本書には、2009年に直木賞を受賞し、その後舞台化や映画化された作品『悼む人』の著者・天童荒太氏との興味深い対談も収録されている。天童氏は、本書に対して「十字架の無力な死を通して導き出された貴い生の本質こそ、 多くの悲劇を前に無力な我々への、清廉な力づけとなろう」という推薦の言葉を寄せている。対談の中でも無力さに触れる。「無力さを受け入れる勇気というのが一番大切」だとする天童氏に、石居氏が「十字架というのは無力の極み」であることを伝える。無力さの中でこそ神とのつながりが見いだされるという言葉が心に残る。
本書は、季刊誌「Ministry(ミニストリー)」第7号の特集「みんなで葬儀!」と、書評誌「本のひろば」の特別号「私たちの死と葬儀」などで書かれたものを中心にまとめ、単行本化したもの。また、それらに掲載された看取りや葬儀をめぐるアンケート、キリスト教葬儀の疑問やトラブルなどに対するQ&Aについても本書の最後に掲載されている。
石居基夫著『キリスト教における死と葬儀―現代の日本的霊性との出逢い』2016年6月25日初版、キリスト新聞社、定価1800円(税別)