今年は遠藤周作没後20年、そして『沈黙』刊行から50年という年であり、長崎ではシンポジウムも開催された。それを記念して出版された本書には14の短編が収められている。
初めに断っておくが、私自身は遠藤周作の良い読者ではない。代表作としてあまりに有名な『深い河』も、長崎に住んでいた当時読んだ『沈黙』も、読後どこか違和感が募った。むしろハンセン病をテーマにした『わたしが・棄てた・女』や『聖書のなかの女性たち』などの中間小説やエッセイ集が好きだ。いずれにしろ、数多い著作の一部しか読んでいない。しかし、この短編集は、むしろそんな私のような読者が遠藤のキリスト教信仰の中核に触れるための最適な入門書であり、珠玉の短編集と言えるかもしれない。
どれもひどく暗く、陰鬱(いんうつ)だ。どこかイタリアのパゾリーニの映画を思い起こさせる。彼の映画も同性愛、カトリック批判と受け止められ、その死すらスキャンダラスに批判された。しかし、「奇跡の丘」「テオレマ」など、執拗なほどイエス・キリストを映画の主題として描き続けた。その根底には、むしろイエスへの「安心」や「甘え」すら感じさせる。それをふと思い起こさせるのだ。
母に着せられた服としてのカトリック信仰と、“隠れキリシタン”
遠藤周作は、日本人のキリスト教信仰を母なる世界へのあこがれであると指摘した。そして自身の信仰を語るとき、熱心なカトリック信徒だった母から着せられた“服”と譬(たと)えていることはよく知られている。本書に収められた『四十歳の男』にはこう書かれている。
「私は・・・子供の時、自分の意志ではなく親の意志で洗礼を受け、だから長い間、形式と習慣で教会に通ったまでです。しかし、あの日から、私は自分の背丈にあわせず親がきめて着させた服を捨てられぬことをはっきりと知ったのです。ながい歳月の間にその服そのものが彼自身の一部となり、それを棄ててしまえば、ほかに体も心もまもる何ももっていないのを知ったのです」(『四十歳の男』)
遠藤が3歳の時、一家は父の転勤で満州の大連に移り住む。しかし、両親の仲が悪くなり離婚し、母に連れられて10歳で兄と共に帰国、神戸の六甲の叔母(母の妹)の家に同居するが、居候生活は窮屈で気を使うものだったという。そしてカトリック信徒だった叔母夫婦と一緒に教会に通い始める。1935年に母がカトリックの洗礼を受け、周作も兄と共に夙川(しゅくがわ)カトリック教会で12歳で洗礼を受ける。
『私のもの』ではその様子がこう書かれている。
「初めて見るミサは彼には退屈で屈辱的なものだった。まわりの人々は突然たちあがったり跪(ひざまず)いたりする。カラスは叔母の命令で、児童の席に腰かけさせられたのだが、小猿のように自分より年下の子供たちのまねをしなければならなかった。ほかの子供たちが祈りを暗唱する時、彼はぼんやりと立っていた。窓からさしこむ陽の光で寝不足の彼は頭が痛かった。そして内陣いっぱいに香炉の香りがただよいはじまるとカラスはその臭いで吐き気さえ催した」(『私のもの』)
しかしその後、高校の受験に失敗し上京、父と共に暮らすことになり、遠藤は母を裏切ったかのような痛みをその後ずっと抱え続ける。この短編集の中では、自身のキリスト教信仰が、母への思いと切り離すことができないものであったことが繰り返し描かれている。それが最も濃厚ににじみ出ているのが、長崎五島の隠れキリシタンの集落を訪ねたときのことを描いた短編『母なるもの』だ。そこでは母の墓を前にこう書かれている。
「結婚する時も、入院する時も、欠かさず、この墓にやってきた。今でも妻にさえ黙ってそっと詣でることがある。ここは誰にもいいたくない私と母の会話の場所だからである。親しい者にさえ狎々(なれなれ)しく犯されまいという気持ちが私の心の奥にある」(『母なるもの』)
そして五島の隠れキリシタンに心惹(ひ)かれる心境はこう書かれている。
「私にとって、かくれが興味があるのは、たった一つの理由のためである。それは彼等が、転び者の子孫だからである。その上、この子孫たちは、祖先と同じように、完全に転びきることさえできず、生涯、自分のまやかしの生き方に、後悔と後目痛さと屈辱とを感じつづけながら生きてきたという点である。(中略)世間には嘘をつき、本心は誰にも決して見せぬという二重の生き方を、一生の間、送らねばならなかったかくれの中に、私は時として、自分の姿をそのまま感じることがある」(『母なるもの』)
物語の最後、遠藤は隠れの家に大切に守られてきた聖画を目にする。それは乳飲み子を抱いた胸をはだけた農婦の絵で、顔は島にいる女たちの顔であり、服は島の百姓の野良着というひどく不器用で粗野な絵だ。しかし、遠藤はこの絵に、深い安息と共感を抱く。
「私はその不器用な手で描かれた母親の顔からしばし、目を離すことが出来なかった。彼らはこの母の絵にむかって、節くれだった手を合わせて、許しのオラショを祈ったのだ。彼等もまた、この私と同じ思いだったのかという感慨が胸にこみあげてきた。昔、宣教師たちは父なる神の教えを持って波濤(はとう)万里、この国にやってきたが、その父なる神の教えも、宣教師たちが追い払われ、教会が毀(こわ)されたあと、長い歳月の間に日本のかくれたちのなかでいつか身につかぬすべてのものを棄(す)てさりもっとも日本の宗教の本質的なものである、母への思慕にかわってしまったのだ。私はその時、自分の母のことを考え、母はまた私のそばに灰色の翳(かげ)のように立っていた」(『母なるもの』)
いずれも小説であり、遠藤自身の体験がそのまま描かれているとは断定できない。しかし、いずれの短編にもあまりに濃密な匂いが共通している。
『私のもの』では、母を裏切り離婚した父と暮らすことへの後ろ暗さから、父が進める女性を断り、自分で妻を決めた心境が書かれる。主人公は、父への反発のみで妻を選んだと自覚している。ある日、妻に「君なんか・・・俺・・・本気で選んだんじゃないんだ」という言葉を発してしまい、妻は涙を流す。主人公はその顔に、「あの男」の顔を見る。そして独白するのだ。
「私は妻を棄てないように、あんたも棄てないだろう。私は妻をいじめたようにあなたをいじめてきた。今後も妻をいじめるようにあなたをいじめぬという自信は全くない。しかしあなたを一生棄てはせん」(『私のもの』)
「あの男」とは言うまでもなく、イエス・キリストである。ひどく暗く陰鬱だが、そこには同時に「強さ」と「安心」がある。
いずれの短編からも、遠藤が『沈黙』などで繰り返し、“強い”“正しい”信仰ではなく、“弱さ”“愚かさ”“みじめさ”の中で信仰を描いたのは、母への痛恨の思いがあったことが、ひしひしと伝わってくる。それはひどく暗く、陰鬱だ。だが同時に、心を許し切ったが故の母親への反発交じりの渇望と、幼児のような甘えと安心をすら感じさせられる。
遠藤周作はなぜノーベル文学賞を取れなかったのか?
本書を読み終えて、2つのことが分かったような気がする。1つは、長崎に住んでいた当時、『沈黙』を読んで感じた「違和感」の理由。そして『沈黙』など一連の著作によって遠藤がノーベル文学賞の候補に挙げられながら受賞できなかった理由だ。その理由はおそらく1つなのだろう。
遠藤は作家として日本人とキリスト教を描き続けたが故に、極めて重要な作家であることは言うまでもない。しかし、彼が「キリスト教」を描くとき、そこには常にあまりにも強烈な母への思いという個人的な感情と切り離すことができてはいない。「キリスト教」「長崎」は、常に「母」というプリズムと記憶を通して描かれている。それは日本人の精神には強く響くものだが、キリスト教文化圏である西欧人には普遍性を持ったものとしては響かなかったのではないか。むしろ“異様”で“異質”なものに映ったに違いない。
それを批判することはできない。誰も個人的な成育歴やバックグラウンドを抜きにして物を考えることはできず、文章を書くこともできない。そんな「信仰」などあり得ない。そしてこれを読む私は、日本人であり、やはり深く共鳴してしまうのだから・・・。
それは日本人とキリスト教を描き続けた作家遠藤周作の「限界」というよりも「宿命」だったのかもしれない。そんなことを考えた。
初めに述べたように、私は遠藤周作の“良い”読者ではなかった。しかし、本書を読んで、初めてその“深み”に触れたような気がする。そしてもっともっとその小説を読みたくなった。その意味で、やはり本書は、遠藤をあまり知らない読者にとっての最適な入門書であり、珠玉の短編集と言えるのだろう。編者の加藤宗哉氏に深く感謝したい。
加藤宗哉著『「沈黙」をめぐる短篇集』(2016年、慶應義塾大学出版会)