「シン・ゴジラ」の勢いがものすごい。単に興収が33億を超えた(8月13日現在)とか、出演者が300人を超えているとか、そういった類の「ブロックバスター」的なすごさだけではない。某映画サイトでは軒並み高評価で、リピーターも数多く生み出されているという。
さらに映画という枠を超えて、多方面でゴジラ「イズム」ともいえるような影響を与えているのである。映画というジャンルを超えて、職場の組織論としての「シン・ゴジラ」、国家的な防衛論としての「シン・ゴジラ」、さらに政治外交論としての「シン・ゴジラ」が巷では語り始められている。
その意味は分かる。120分の中に凝縮されたコンテンツが、見る者の立場によっていかようにも解釈される「開放性」を豊かに含んでいるからである。「ゴジラ」という未確認生物(決して「怪獣」とは言わない)をメタファーとして解釈し、この物語が自分(たち)にとってどんな意味を与えるものなのかを考え始めるとき、人は「シン・ゴジラ」について語らざるを得なくなる。いや、語りたいと願わせるだけの強烈な熱量がこの映画には蓄積されていると言ってもいい。
当然、私は牧師という立場からこの映画を見た。その観点で「福音宣教」に携わる者としての回答を試みてみたい。いうなれば「牧師の宣教論としての『シン・ゴジラ』」である。
まず何よりも驚かされたのは、「シン・ゴジラ」とタイトルが出て映画が始まり、その数分後には「事件」が発生したこと。前ふりというか、舞台背景というか、そういった説明のために割かれた時間が全くない。いきなりゴジラの登場である。しかも「あんな形」でスクリーンに出てくるなんて、生涯で何度もないことだが、思わず「ええっ!」と叫ばずにはおれなかった。
教会で起きるさまざまな「ゴジラ登場」と「合議」
牧師として教会や人々に仕えて間もなく20年となるが、その間に起こったさまざまな出来事は、まさに「ゴジラ登場」の連続であった。いきなり出現する「問題」、どうしても緊急に決断すべき「課題」など、福音宣教という視点から見るなら、毎年のように教会にゴジラ(種々の問題)は迫ってくる。
全てをうまく解決することなど望むべくもないのだが、しかしそれに向き合わなければならないのは、劇中の政府高官たちと同じ立場である。しかし悲しいかな、その解決方法も政府高官たちと同じ轍(てつ)を踏んでしまうことが往々にしてある。具体的には、長老や役員たちとの会議、ミーティングである。
もちろん全体を考えての決断であるため、「合議」を図ることは決して悪くない。会議や皆の合意なくして集団としての教会の前進がないのは分かる。しかし、頭をひねって考え込んでいる傍らで、往々にして「ゴジラ級」の出来事はさらに被害を拡大させていく。
某有名映画シリーズではないが「事件は会議室で起きているんじゃない!」と叫びたくなる。この映画は、旧態依然とした「日本型対応システム」全般への強烈なアンチテーゼとなっている。その影響をキリスト教会といえども排除することはなかなか難しい。
キリスト教会で瞬時の決断が迫られる事柄とは、やはり福音宣教に関することである。計画をどんなに緻密にしても、実際に行われる事柄にイレギュラーはつきものである。それが勃発したとき、どこに本質を見いだすか?
真に福音宣教を考えるなら、「従来の」とか「総合的に」とかいう言葉に翻弄されず、機を見て敏なる行動が必須であることを、「シン・ゴジラ」から寓話的につかみ取ることができる。
「ゴジラ」と「日本人」、そして「日本のキリスト教と教会」
もう1つ、牧師として大いに考えさせられたのは、この映画が徹底して「日本人」をテーマにしているということである。いろいろあった挙句、東京の真ん中にゴジラは仁王立ちする。このあたりから、日本限定で進んでいた物語が「国際社会の中の日本」という状況へ移行していく。そして米国が重要な役割を携えて迫ってくる。
米国は、この未曽有の事態に「最終的な解決」を実行する用意があることを日本政府に告げてくる。確かにこれを行えば、いかにゴジラといえどもたちどころに消失するであろう。しかしそれは、日本の中枢機関の消失を意味すると同時に、先の大戦で受けた傷をさらに拡大させることをも意味していた。
果たしてこの内憂外患の状態から、日本は無事に脱することができるのだろうか? このあたりが「シン・ゴジラ」最大の面白味ということがいえる。そしてこの構図は、日本のキリスト教界においても同じであることを、私も痛感した。
この物語展開を通して、ふと思い出した個人的な体験がある。かつて米国のメガチャーチ牧師と知り合いになったときのことである。そんな彼のメッセージに魅かれ、願わくは日本にも来てもらいたいと思うようになっていた私は、ついに直接彼と会う機会を得た。
しかしその前に、彼の参謀という男性が私に近づいてきてこう言った。「日本のキリスト者人口は1パーセント未満だと聞いている。日本に彼(牧師)を招きたいと言うなら、あなたは1万人以上の日本人を集めることができるか?」
つまり、この条件を果たせるなら彼を日本に送ってやってもいい、ということである。この参謀は最後にこう言った。「いいか、覚えておけ。彼の名前はブランドなんだ。これを輝かせることが日本でできるなら、もう一度ここに連絡してくるがいい」と。
メガチャーチ牧師個人はどうか分からないが、少なくともこの参謀たちが考えているのは自分たちの都合である。「福音宣教」という他者のためにどれだけ与えることができるか、という領域でさえ、外見の柔和な姿勢とは裏腹に、自分たちが不利益を被ることだけはしたくない、という姿勢で迫ってくる。
現在も多くの海外講師が日本にやって来てくれる。彼らの多くは自国のやり方をそのまま持ち込む。数万人を集めて行われる「大集会」を得意とする「リバイバル伝道者」が立て続けに日本に乗り込んできたことが過去にも何度もあった。
日本側は彼らの指示の下、必要な会場、機材、備品を用意し、期待する。そこそこの動員があり、集会が経済的に「成功」することはあるが、それで何かが変わったかというと、そうでもない(という声をよく聞く)。
「シン・ゴジラ」は、米国をはじめ国際社会からのプレッシャーを前に、ゴジラ殲滅に「日本人らしい」やり方で立ち向かう。最終的な作戦の「肝」は、およそ今までのゴジラ映画では考えられない「地味な」味付けである。「こんなやり方でいいのか?」と思わせる作戦が、真剣に実行される。しかし私は見ているうちに、いつしか手に汗がにじみ、最後には劇中人物と同様にガッツポーズをしてしまった。
日本人の民族意識とでも言うべきだろうか、これはどの分野においても私たちが多かれ少なかれ持ち合わせている感覚である。かつて「日本的基督教」を訴えたのは矢内原忠雄である。西洋主流の「クリスチャニティ」ではなく、日本人の心に届くのはやはり日本人の手による「キリスト教」であるという主張である。
いつしかそのことは忘れ去られていった。そして翻訳主流の神学や欧米講師主体の伝道集会が現在も脈々と受け継がれている。
「シン・ゴジラ」を見て、この未確認生物(後にゴジラを命名)を殲滅するのに、従来の形式にとらわれない新しい視点から、日本人がその手でこれを行うという展開に、「お前は牧師として何をしているんだ?」と後ろから小突かれた気がした。
「シン・ゴジラ」は、日本映画の傑作であるだけでなく、さまざまなメタファーとして私たちに挑んでくるという意味で、キリスト者必見の物語であると言えよう。
■映画「シン・ゴジラ」予告
◇