平塚、湘南、横浜にある三つのYWCAは、毎年この時期に沖縄問題を考える勉強会を合同で開催している。今年も横浜YWCAを会場に11日、日本基督教団三・一教会の平良愛香牧師と、捜真(そうしん)女学校高等学部・沖縄研究会の生徒らをゲストに招いて「3市YWCA沖縄デー『沖縄からのメッセージ』」を開いた。
集会を前に、沖縄YWCAから届いた動画が紹介され、米軍基地の横で抗議デモを行う様子や、ゲート前でゴスペルを歌う会などの模様が映し出された。全身に力をみなぎらせてデモ行進をする人々の様子からは、並々ならぬ思いが伝わってくる。
捜真女学校高等学部・沖縄研究会の生徒らは昨年末、キリスト教系学校の教職員を対象とした沖縄ツアーに参加した。同研究会が発足したのは、約2年前。普天間基地へオスプレイが配備されることに反対した住民の戦いを記録した「標的の村」を鑑賞したことがきっかけだった。
その後、沖縄県出身の平良愛香氏が同校を訪問。平良氏の話を聞いた生徒らが「本土にいる自分たちも何かしたい」との思いから、同研究会を立ち上げた。現在では、定期的に勉強会を行うほか、新聞の発行、手作りのサーターアンダギー(沖縄風ドーナツ)を文化祭で販売し、売上を義援金として送金するなどの活動をしている。
ツアーでは、基地や戦跡を巡ったり、沖縄国際大学の学生と交流をしたり、ハンセン病療養施設「愛楽園」を視察した。発表後、生徒の1人は「これからも、しっかりと沖縄の問題と向き合いたい」と話した。
平良氏は1968年夏、沖縄で生まれた。25年前、進学のために関東に引っ越してくるまで沖縄で生まれ育った、いわゆる「ウチナンチュ(沖縄人)」だ。平良氏が生まれた頃、世界はベトナム戦争の真っ最中。第2次世界大戦末期の沖縄戦を知る人は多いが、「アメリカの統治下であった沖縄が、このベトナム戦争にも巻き込まれていたことを知る人は少ないのでは」と平良氏は話した。
ベトナム戦争で沖縄に爆弾が落ちるようなことはなかったが、沖縄では米軍の攻撃拠点として毎朝飛行機が飛び立ち、ベトナムへ向かっていた。帰還した飛行機を整備するのは、現地の人々だった。
返り血を浴びた防弾チョッキ、人を殺すために使用する武器の数々を目にした沖縄の人たちは「被害者から加害者になったことを実感していた」と平良氏は話す。平良氏によると、実際にベトナムの人から沖縄は、人殺しがやってくる「悪魔の島」と呼ばれていたという。
そのような折、クリスチャンの両親は毎日、沖縄のために祈っていた。戦争が終わったのに「いつになったら沖縄に平和が訪れるのですか・・・」と。その祈りは、旧約聖書の哀歌(あいか)で語られているイスラエルの民の嘆きのようだったという。
そんな祈りの中、両親は生まれたわが子に、沖縄の歴史を忘れないために同じ音の「愛香(あいか)」と名付けた。平良氏は「幼い頃はこの名前のおかげでからかわれたこともあったが、今では沖縄の歴史に深く根差したよい名前だと気に入っている」と話した。
沖縄の現状を話すとき、人々から「沖縄は大変ですね」と声を掛けられると、三つのことが平良氏の頭の中をよぎるのだという。一つ目は、「どのくらい大変か、本当に分かっているか」ということだ。
5月に起きた米兵による強姦殺害事件を例に挙げ、「沖縄は、怒っている」と話した。沖縄での米兵による殺害事件は後を絶たない。「もちろん、日本人の中でも殺人事件や強姦事件を起こす人がいることから、『米兵だけが加害者ではない』と主張する人もいる。しかし、彼らは、人を殺す訓練を受けてきている。基地があるからこういう事件が続くのだということを、沖縄の人は長い歴史の中で知っているのだ」と話した。
2004年に普天間基地から飛び立ったヘリコプターが沖縄国際大学に墜落したときは、同校が夏休み中だったために、幸いにも死者やケガ人は出なかった。しかし、現地では赤ちゃんを抱えて死にもの狂いで逃げた女性などがいたという話も聞くとのこと。
事故現場には、沖縄県警も地元の新聞社も、日米地位協定により一切入ることはできなかった。「このように、沖縄は基地の外でも米軍の都合の良いように使われる」と平良氏は話した。
平良氏の脳裏をよぎる二つ目のことは、「日本のせいで沖縄が苦しんできたということを、本土の人は分かっているか」ということだ。沖縄は1871年の廃藩置県の翌年に、なぜか琉球王国から琉球藩になった。1879年3月には、日本政府の都合で琉球藩から沖縄県になった。
「このことを、当時『琉球処分』と呼んだ。『処分』というのは、いらないものを片付けるとき、または悪いことをした人に罰を与えるときに使う。沖縄が何をしたというのだ」と平良氏は語った。
それでも、沖縄の人々は、少しでも本土の人間に近づきたいと日本語を話し、苗字を日本人と同じような名前に変えていった。日本人として沖縄戦を戦い抜き、軍国主義であった日本の教育通り、命さえも惜しまず、いよいよというときには自決の道を選んだ人が少なくなかった。
懸命な努力があったにもかかわらず、戦後、日本は再び独立をするため、あっさり沖縄を切り離した。20年間続いた米軍統治の間も、沖縄の人々は「日本に戻りたい」と願っていたという。
それは、「祖国に帰りたい」という思いもあったが、「戦争をしないと約束した憲法9条に日本が守られていることを知っていたから。沖縄は、平和を求めていたのだ。だから、沖縄の人は日本の旗を振り続けた」と平良氏は話した。
1972年5月、本土返還を果たすが、それでもなお、沖縄から基地がなくなることはなかった。「沖縄は大変ですね」という声を日本人から聞くたびに「日本が沖縄を苦しめてきたのだ」ということを何人の人が深く考えているだろうと思うのだという。
三つ目は、「沖縄も大変だけど、日本も大変になっていることに気付いているか」ということだ。日本は、どんどん戦争ができる国に向かっている。そのことに気付いている人もいるが、気付いていない人も多くいる。
沖縄は、引き続き大変な状態が続いているが、日本も相当危険な状態に来ているのではと話し、「解決策を、今後も皆さんと考えていきたい」と講演を結んだ。
講演後、本紙の取材に対し平良氏は、「25年前、沖縄から関東に引っ越してきたときは、外国に来るつもりで来た。『大和の人は、沖縄の人を差別するよ』と周りから聞かされていたので、あまり大きな衝撃はなかった」と語った。また、「高校生たちが、何年か前に自分の話したことがきかっけでこのように活動を続けてくれていることは、素直にうれしい」と話した。