「私は一九五三年に大学を卒業しました。日本が負ける事の無い神の国と教え込まれ、軍国主義一色で、皆、お国のためにと戦って、敗れ、今まで日本の神様であると教えられた天皇が、新聞紙上で人間宣言をし、今度は反対に民主主義が選挙運動の街頭で大声で叫ばれていました。
心うらぶれたこの混乱の時代に、ひっそり通った田園調布の小さな教会。その中で私は青春時代を過ごす事が出来ました。−−(以下専門の学術講演につき略します)−−もしも教壇から語る事を教育と言い、それが人を教えると言う事ならば、私は一体何を教える事が出来るでしょう? ただ私は、自分が心から仕える、遥かにずっと偉いお方、その方によってこれをする、と思うから、何でも出来るのです。−−
問題は自分ではなくて神様なのです、情熱を持って語らざるを得ないではないですか。私が思うには、人生は、自分がどう生きるかという事ではなくて、どの様に、神様に用いられるか、という事だと思うのです。
薬学(科学)を学ぶ真面目な人に陥りやすい罠があります。それは科学万狽ニいう錯覚と、囚えられた進化論の考え方です。前者に心が捉えられると、科学を恵みとして下さる恩寵の神を見失って彷徨い、後者に囚われると、自分や他人を大切にするかわりに、競争自体を重んじて、強食弱肉とか自然淘汰という言葉さえ出て来ます。先祖がお猿さんという考えに支配されると、人間は神様が下さった尊厳を失い、競争社会の観念に囚われて、運命と諦めの動物に変わります(そうしてお猿さんの様な競争世界を来たすかも?)。−−この大学にも動物慰霊祭というのがあります。これは、実験動物の霊を慰めるためですが、私はよく、『動物に霊があるんでしょうかね?』と聞いて回ります。何しろ此処は大学ですから、霊の無い動物のために慰霊祭を行ったら、恥ずかしい事ですから。
神を信じる人、北大のクラーク先生が学園を去る時言いました。『少年よ大志を抱け』。それは、神を写して限りなく尊い人間の価値、その事の上に立つ人(それは皆さんの事です)、その可柏ォを頌えたものです。
卒論の学生さんには語りました。『注ぎ出す香油のように』と言われる事は、心は良いもので満たされているのに、蓋をしたままで終わる事の無いようにということです。愛という言葉を素直に口に出せない世の中ですが、キリストは言っています。『自分を大切にしてくれる人を愛する事は誰だって出来るのです。自分の敵を愛しなさい』と。人は一回しか死ぬ事は出来ない、とこれも聖書に書かれている事です。どうか皆さん、神を愛し、己と他人を愛し、自信を持って世界を生きて下さい。たった一人の、たった一回のこの地上の人生に、皆それぞれの思いが遂げられますように! −−私はいつも皆様のために、祈っています。」
=つづく=