十数年前まではタイ領内で平和に暮らし、IDカードも交付されていたカレンの村が、ダム建設のため沈むことになった。彼らはダムの最奥の地にピロッキーという村を作った。ジェット船で最短距離を行っても一時間かかり、その船以外には出口がない村だ。ここにはカレン族だけでなく、モン族やタイ人も少し住んでいるが、最奥の地でも麻薬の害が蔓延していた。その村にはバプテスト教会がある。ダビデ牧師は一六〇世帯ほどある村のうちの一〇〇世帯を信仰に導き、間もなく新しい教会堂も完成する。
私が宣教に出かける夏は、現地では雨季に当たる。毎年ずぶ濡れになりながら、このような僻地や難民キャンプを訪れ、日本からの愛を伝え続けている。
この山奥にカンチャナブリ県で唯一のミッションスクールがある。一九九七年の夏もここを訪れた。三〇〇名の小学生が合宿をしながら学んでおり、行くといつも朝礼で話をする機会が与えられる。圧巻なのは、三〇〇人の小学生が一斉に行なう暗唱聖句だ。講堂全体に黄色い声で、元気いっぱい聖書のことばが響く。この子たちは、日本の自動車や家電のメーカーの名前はいくつも知っていたが、日本人を見るのは初めてだった。私といっしょに行った五名の神学生がタンバリンの演奏をすると、目を大きく見開き、感動して聞いてくれた。先生に聞くとタンバリンを見たのも初めてだったとのことで、さっそくタンバリンもプレゼントした。また今回は、ここの子どもたち全員に、文房具を届けることもできた。富雄キリスト教会の教会学校の子どもたちからのプレゼントである。感謝だった。
子どものころ、私には歩く以外の交通手段はなかった。カレン族の村を歩いている時、幼い日に歩いた種子島の日々を思い出し、そのような者を「良い知らせを伝える足」として召してくださった主に感謝する。
中学二年生の修学旅行の時、行く必要はないと父に言われ、行かせてもらえそうになかった。担任の東先生が、わざわざ八キロの山道を歩いて、父を説得しにきてくれた。父は鹿児島まで行って一泊したら帰るという条件で許してくれた。後の二泊は必要ない、お前はやがて鹿児島や熊本だけでなく、全世界を自由に歩くようになるのだからと言われ、その時は理由にならない理由だと思った。しかし日本人を見たこともないと言われるような山岳地帯にまで、宣教のために毎年出かけるようになった今、父のことばは預言であったと感謝している。そして父は「義之よ、海外に出て行き、見聞を広めよ」といつも語ってくれたが、見聞のほうは別として、良い知らせは私が訪れる土地に、少しは広まったと確信している。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)