日本ケズィックコンベンション東京大会が23日、東京・淀橋教会で始まった。講演は全4回。午後1時半から行われた最初の「バイブル・リーデング」でロジャー・ウィルモア氏は、クリスチャンが霊的に弱まっている時代だからこそ「イエスが主であることを語らなければならない」と強調した。
ウィルモア氏は講演で、キリスト教の一番重要な教理は「イエス・キリストは主」であることだと強調した。「イエス・キリストは主である」―この告白がマスターキーとなって、他のすべてのものがそこから出てくる。
では、「イエスが主である」とは具体的にどういう意味なのか。2つある。1つは、救い主であること。そしてもう一つは、主権者だということである。神の目的は「私たち一人ひとりの生涯においてイエスが主となることだ」だとウィルモア氏は説いた。その上で、現状は「イエスがすべてのクリスチャンの主になっていないのではないか」と問いかけ、「救い主としてイエスに信頼する。しかし(それだけでなく)、主権者としてのイエスに私たちは従う」と語った。
主権者としてのイエス。イエス・キリストは今この瞬間も、主の主、王の王として天地のすべてを治めておられる。
人とは大きく、目に見える部分と目に見えない部分とに分けられる。「目に見えない部分で、イエス・キリストを主とすることがもっとも大切」だとウィルモア氏は語る。
使徒ペテロは幻の中で、目の前に置かれた大きな敷布のような入れ物に入った生き物を、「ほふって食べなさい」との天からの声を聞いた(使徒10:13)。しかし、ペテロは「主よ。それはできません」と主の命令を拒んでしまった。
ウィルモア氏は、「私たちが主に祈っても、もし、それはできません、と言うのであれば、イエスを主と呼ぶ資格がないのではないか」「みなさんのすべてにおいて、キリストは主であられるだろうか」と問いかけた。
イエスは主である。では、「イエスは主である」と告白する者にはどういった歩みが求められているのか。
まず、イエスが主であると告白することは、私たちが「自分の所有権は主のものである」と認めることである。イエスは、私たちを十字架の血の代価によって買い取ってくださった。「だから、私たちは主のものである」とウィルモア氏は説いた。
次に、イエスが私たちの所有権者であれば、私たちは彼に従わなければならない。ルカの福音書9章57〜62節でイエスは、ご自分に従う決意をした3人の弟子をそれぞれ試された。まずイエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(58節)と、主に従うことに伴う貧しさを示された。ウィルモア氏は、「主のために喜んで何かを犠牲にできるか」「私たちは貧しさをもしのんでいくというテストを、イエスによってクリアさせていただきたい」と語った。
また、従うが、「まず行って、私の父を葬ることを許してください」と語った弟子に対してイエスは、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」(60節)と、従うことの緊急性をお示しになった。「従いなさい」との主のご命令を先延ばしするならば、それは従っていないことに等しい。「今、イエスに従う覚悟はできていますか」とウィルモア氏は会衆に問いかけた。
そして、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」(62節)と、主権が主にあることを語った。ウィルモア氏は、「イエスだけが、私にどのように生きるべきなのかを話すことができるのです」と説いた。
最後にウィルモア氏は、「イエスが主であることを語らなければならない」と繰り返し強調した。クリスチャンが霊的に弱くなっているとき、また他者との協調を大事にするあまりに福音の真理がおろそかにされている時代だからこそ、「この方が主権者である」との証しを明確に打ち立てるようにと呼びかけた。
ウィルモア氏は、「みなさんは今日、イエス・キリストがあなたの主だと、あなたご自身を(主に)おゆだねしますか」と会衆に問いかけた。司会者の招きに、若者を中心に多くの参加者たちが講壇の前に出て行き、そこで信仰の決心を表明した。