「序」
3. 惑わしの仕組み
イエスは、御言葉をふさぐのは「この世の心づかい」と「富の惑わし」だと言われた。「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」(マタイ13:22)
イエスが言われた「この世の心づかい」も「富の惑わし」も、私たちが何の抵抗もなく積み上げている経験である。イエスは、その「経験」が人を惑わし、「神の言葉」を食べられないようにしていると言われたのである。
つまり、私たちのうちには、「経験」という「うちなる敵」がいるということだ。そこで、この「うちなる敵」がもたらす恐るべき被害の実態を確認しておきたい。さらには、どのように人を惑わし被害を生じさせているのか、その特徴や仕組みも見ておきたい。
(1)恐るべき被害の実態
最初に、「経験」という「うちなる敵」が生じさせる恐るべき被害の実態を確認したい。イエスは「愚かな金持ちのたとえ」で、その被害を具体的に話された。
例えに登場する金持ちは、自らの積み上げてきた「経験」に惑わされ、「神の言葉」が食べられなかった。その結果、恐るべき被害に遭った。では、その例えの一部を読んでみよう。
「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」』・・・」(ルカ12:16~19)
この金持ちの畑は豊作であった。その豊作を見た金持ちは、自分にこうささやいたという。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と。しかし、このささやきが、「神の言葉」をふさいでしまった。それゆえ、神はこの金持ちにこう言われた。
「しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか』」(ルカ12:20)
この金持ちは、「もう安心だ」というささやきに惑わされ、信じれば救われるという「神の言葉」を食べることができなかった。その結果、「永遠のいのち」を得られなかった。ここで神は、そのことを嘆いておられる。
つまり、「もう安心だ」というささやきが「神の言葉」をふさいでしまい、彼に甚大な被害をもたらしたのである。では、「もう安心だ」というささやきは、一体どこから来たのだろうか。
言うまでもなく、それは彼の積み上げてきた「経験」から来た。彼は、豊作が暮らしを豊かにし、一時の安心をもたらしてくれる経験をしてきた。それゆえ、豊作を見たとき、彼の積み上げた「経験」は「もう安心だ」とささやいたのである。
しかし、そのささやきが「神の言葉」をふさぎ、彼から「永遠のいのち」を奪ってしまった。この経験こそ、イエスの言われた御言葉をふさぐ「富の惑わし」にほかならない。
かつてイエスは、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ16:26)と言われたが、まことに「富の惑わし」という「経験」は、「永遠のいのち」をも損じさせ、「永遠の死」へと導いてしまう。これ以上ない被害を人にもたらすのである。
次に、「この世の心づかい」という経験がもたらす恐るべき被害の実態も確認しておこう。その被害は、アダムとエバの子、カインに見ることができる。
「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた」(創世記4:3~5)
神がアベルのささげ物に目を留められたので、カインは、自分は神に愛されないと思った。自分が愛されないのはアベルのせいだと思った。そのことで、カインはアベルに対し怒りを覚え、この後、殺人という行為に至る。
しかし、カインの思いは間違っていた。神は、カインもアベル同様、行いに関係なく愛されていたからだ。それゆえ、神は彼の誤った思いから生じた「怒り」を見ると、すぐさまこう言われた。
「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。・・・だが、あなたは、それを治めるべきである」(創世記4:6、7)
神は、憤りを治めるよう言われた。つまり、神はカインに、「あなたは誤解している。わたしはあなたも同じように愛している」と暗に伝えられたのである。
しかし、カインには、この「神の言葉」が耳に入らなかった。そして、この後カインはアベルを殺してしまう。では、どうしてカインの耳には「神の言葉」が入らなかったのだろうか。それは、彼の積み上げてきた「経験」のせいである。そのことを説明したい。
創世記4:3~5を見ると、カインの心には「ねたみや争い」が生じている。それは、おいしい「人の言葉」で心を満たそうとする「肉に属する」生き方を、カインがしていたことを物語っている。
「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか」(Ⅰコリント3:3)。カインは私たち同様、自分が愛されようと「この世の心づかい」に生きていたのである。
いつも弟と自分を比べ、どちらが愛されるかを競い、少しでも弟より勝ることで親に愛されようとしていた。親も、勝っている方をよけいに愛した。カインの心に「ねたみや争い」が生じたということは、こうした経験を積み上げてきたことを証ししている。
この経験は当然、弟の方が神に評価されると、「お前なんか愛されていない」とささやく。そのささやきが、弟に対する激しい嫉妬を引き起こし、殺してしまうほどの怒りへと発展し、カインに対する「神の言葉」をふさいでしまった。
結果、カインは弟を殺した。まことに「この世の心づかい」という「経験」は人を惑わし、「殺人」という行為にまで導いてしまう。これ以上ない目に見える被害を人にもたらすのである。
このように、「この世の心づかい」と「富の惑わし」という「経験」は、御心に反することをささやくことで、神を信じないという「罪」を人に犯させたり、人を殺すという「罪」も犯させたりしてしまう。まことに恐るべき被害をもたらす。
つまり、人が罪を犯してしまうのは、「経験」という「うちなる敵」が、御心に反するささやきをしてくるからにほかならない。
思い出してほしい。アダムとエバは、どうして罪を犯したのかを。それは、悪魔が蛇を使って御心に反するささやきをしてきたからである。
その結果、「神の言葉」がふさがれ罪を犯してしまった。同様に、今日では人の「経験」が悪魔に代わり御心に反するささやきをし、人に罪を犯させている。
「神の言葉」が「○」と言っていても、人の「経験」がそれを「×」だとささやき、人に罪を犯させている。この「罪」こそ、「恐るべき被害」なのである。
では、「恐るべき被害」の実態が確認できたところで、そうした被害をもたらす「惑わしの仕組み」をひも解いてみよう。この仕組みは見てきたように、人の積み上げてきた「経験」が人を惑わし、罪を犯させるというものである。初めに、その仕組みの特徴をひもといてみたい。
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