NHK連続テレビ小説「あさが来た!」も、そろそろ佳境に近づいているようだ。毎朝のドラマの成り行きを楽しみにしている人も多いだろう。現在、ドラマでは、主人公の広岡浅子(ドラマ中では「白岡あさ」)が、女子の大学教育に興味を持ち始め、「女子(おなご)にも大学教育を!」と奮闘する様子が描かれている。
明治、大正時代を生きた浅子は、晩年、クリスチャンになったことでも有名だ。浅子がその設立のために奔走した日本女子大学では現在、「女子大学校創立の恩人―広岡浅子展」として、さまざまな資料が展示されている。2月の展示開始以来、毎日約300人の来館者があるとのこと。展示が行われている日本女子大学成瀬記念館を取材した。
平日の昼下がり、校内はすでに春休みに入っており、学生の姿はまばら。文京区目白台にある同キャンパス内を歩いていると、続々と人が入っていく建物が目に入った。成瀬記念館だ。同館は、日本女子大学の創立者で、明治期のキリスト教牧師であり、日本における女子高等教育の開拓者の一人でもあった成瀬仁蔵を記念して造られた建物だ。
成瀬と浅子の出会いは、1896年の春。当時、梅花女学校の校長であった成瀬の訪問に始まる。成瀬は、1890年からアンドーバー神学校やクラーク大学で教育学や社会学、キリスト教などを学ぶために米国へ留学。3年間を過ごし、帰国後、「女子のための高等教育機関を」と願う成瀬は、自身の教育方針を記した著書『女子教育』を執筆。それを浅子に手渡し、協力を仰いだのだった。
実業家であった浅子のもとには、それまでにも学校設立のための協力要請があったが、浅子の考える教育理念とは異なったため、協力には至らなかった。成瀬に対しても同様、当初は賛否を明らかにはしなかった浅子だが、九州に向かう旅の中で、この著書を「繰り返し読み、涙が止まらなかった」と記している。
三井家の令嬢として育った浅子は、幼少期からお茶やお花、琴の稽古や裁縫などが課せられたが、こっそりと同年齢の男子が読む本などを読んでいた。しかし、浅子が13歳の時に、ついに読書を禁じられてしまったのだ。このような経験から、「女子だからという理由だけで、男子と同じことをしてはいけない」ということを、長年、心の中に留めていたようだ。
当時の住まいであった大阪に戻るやいなや、成瀬への助力を了承。すぐさま、自らが発起人となり、資金調達のために奔走した。現在、日本女子大学のある目白台の土地は、三井家から寄贈されたもの。こうして、1901年、日本女子大学校が開校した。今回の展示では、女子大学創設のために寄付をした「寄付金収入簿」なども見ることができる。多くの人が、女子教育のために多額の資産を投じたことが分かる。
開校の年に入学した小橋三四には、浅子は在学中から卒業後、そして浅子が召天する直前まで愛情を注ぎ、共にキリスト教伝道にも大きく貢献することとなった。三四は、在学中に受洗。キリスト者として、YWCA(キリスト教女子青年会)の機関誌、キリスト教系の新人社発行の「新女界」の編集に参加した。
一方、晩年の浅子は、1909年に乳がんの摘出手術を受け、麻酔によって眠りに落ちる刹那、人がいう、神ともいえる偉大な力を感じ、その年の暮れ、成瀬を介して導かれた大阪教会の宮川経輝牧師から教えを受け、2年後のクリスマスに受洗した。
受洗後は、全国各地で講演を行ったり、YWCAなどの集会に参加したり、積極的に伝道を行った。また、御殿場の別荘で、若い女性たちを招き夏期勉強会なども行い、この場には、『赤毛のアン』の翻訳をしたことでも有名なクリスチャンの村岡花子らもいたという。
展示の中には、浅子の写真も多数あり、その多くが和装ではなく、洋装であることが特徴ともいえる。今回、一際目を引く展示物として、浅子が写真の中で着ている洋服を、同校の被服学科の卒業生が再現したものがあった。中世ヨーロッパの貴婦人を思わせるようなドレスを、浅子はどのような場面で着ていたのだろうか。
1919年、浅子は東京都内の広岡家別邸で、その激しくも多くの愛に満ちた一生を終え、召天した。告別式では、成瀬が弔辞を読み上げ、約300人が参列。その2カ月後には、成瀬も末期の肝臓がんに倒れた。
実業家、活動家として生きた広岡浅子。女子大学設立に大きく貢献した一人として、また晩年は、女性キリスト者として生きた浅子の一生を、写真や彼女の筆跡から垣間見ることのできる展示だ。
4月8日まで。火曜日から金曜日の午前10時から午後4時半。土曜日は正午までとなっている。休館など、詳しくは同大のホームページ。