初めてタイを訪ねたのは、一九八四年だった。在タイ宣教師の森本憲夫師の出迎えを受けた。山田長政のアユタヤの遺跡に立った時、少年時代に熱中しつつ読んだ本を思い出し、「兵どもが夢の跡」を見る思いだった。
ケンコーイ郡に、日本からの援助で建てられたキリスト教会があった。「エコノミック・アニマル」と世界中に軽蔑される国の、少数のクリスチャンの祈りの結晶を見た。日本の経済力が世界宣教に用いられる時、日本はあらゆる意味で世界の先達になれる。リバイバルはそのことも可能にするのだ。そう祈り、確信した。
最後に訪れたのは、カンチャナブリ市だった。ここは「戦場に架ける橋」で有名な土地である。第二次世界大戦時、日本軍はビルマ侵攻のため、泰麺鉄道敷設を計画した。破竹の勢いで勝ち進む日本軍は、イギリスやオランダ、さらにはオーストラリアやアメリカなど、連合軍兵士を次々に捕虜にした。鉄道敷設のためには、すでにタイ、ビルマ、インドシナ半島の現地人や、カレン族などの山岳民族、二十万人以上が徴用されていた。遅々として進まない敷設工事にいらだった軍は、捕虜を強制労働に駆りたてた。食糧事情も悪く、気候も熱気や雨で大変な上、怒声とむちと軍靴に踏みにじられ、けとばされて、多くの青年兵士たちの生命が、虫けらのように失われていった。
映画を見て「クワイ河のマーチ」のメロディーを知っていても、あるいは書物を読んでいても、現地に立ち、現実に触れ、事実を見つめる時、戦争の悲惨さを知った。「主よ。私たちの国をお赦しください」。戦争の責任を過去に問うことも一理あるが、今、日本人としてどうかが問われなければならないと思った。
現地強制労働者二十万人、うち死者八万人。イギリス兵捕虜三万人、うち死者六五四〇人。オランダ兵捕虜一万八〇〇〇人、うち死者二八四〇人。オーストラリア兵捕虜一万三〇〇〇人、うち死者二七一〇人。アメリカ兵捕虜七〇〇人、うち死者三五六人。実に九万二六二六人もの犠牲によって、この橋は完成した。枕木の数だけ死者が出たとさえ言われている。そのためこの橋は、別名「死の橋」と呼ばれている。しかもカレン族をはじめとする山岳民族は、死者の数にも数えられなかったとのことだ。
緑の芝生が美しい公園墓地に、整然と並ぶ十字架の墓碑。刻まれた銘を読み進むうちに、涙でかすむ目は文字を追うことすらできなくなった。「永遠に忘れない」「必ず再び会える」「あなたこそ真の勝利者」「平和のうちに眠れ」「神は目の涙をぬぐってくださる」「偉大な愛の手から奪う者はない」「神はすべてを知っている」などなど。父や母が、恋人が、妻が、兄弟や親族が、それぞれの思いをこめて刻んだ銘が、謝罪を、そして赦しと平和を訴えかけている。日本人の一人として、墓地にたたずみ、祖国の罪を悔い、祈りを献げつつ、今何ができるかを主に尋ねた。
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)との、主の御声を聞いたように思った。平和を祈る人、叫ぶ人、求める人は多い。しかし一方で平和のために憎み、争い、戦う人もいる。聖書は、平和をつくりだす幸いを教えている。
第一にすべきことは、神の和解の福音を世界に宣教することだ。これこそ、平和をつくりだすことだ。一万五〇〇〇人の日本軍が、三十万人を強制労働に駆り立て、十万人近くの人々を死に追いやったとすれば、少数者だからできないというのは言いわけにはならないと思う。キリスト者の平和への希求は、世界への宣教をもってこそ達成されるのだ。私はそう確信している。
それ以降、毎年夏にはカンチャナブリを訪れ、カンチャナブリ市教会の助けを得て、その働きを継続している。この教会のチュン牧師は、日本人宣教師君江師と結婚している。その長男エリシャは、タイ国立大学を卒業すると同時に、生駒聖書学院に留学、卒業後はタイに帰国し、通訳として、宣教の働きの大きな推進力となっている。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)