この世に生まれてきた他の赤ちゃんたちは、大きな声で元気に泣き、体も柔らかく、母親は「両足を持って逆さにすると、面白いようにブラブラ揺れていたよ」。そんなことを話します。それに対して脳性麻痺の障碍(しょうがい)を持って生まれてきた僕は、腕や足などが曲がり、体全体がまるで石のように硬く「逆さまに吊り上げても、全く動かなかった」と、母は当時のことを懐かしむかのように語ってくれたことがありました。
生まれてきた僕は音にも敏感で、大きな音などに驚いて体が反応してしまう、脳性麻痺特有の「音反射(通称:ビックリ反射)」という障碍があり、言語にも障碍がありました。
僕が幼い頃、病などで苦しんでいる人に気を送ると病が治るという受念術が信じられ、はやっていたそうです。「先生の気にあやかればきっと病が良くなる」。誰もがそう信じ、わらにもすがりたいという思いで大勢の人々を集める人気ぶりだったといいます。
「今度、東京に受念術の偉い先生がみえるんだって」。そう聞き「この子にも気を送ってもらい、治療を受けさせれば治るかもしれない」。祈るように一筋の望みをかけ、両親は僕を連れて受念術が行われる会場に向かったことがあるそうです。
広い会場に、数千人もの人々が並ぶ中、両親は「少しでも良くなれば」と僕を抱っこし、炎天下の中で何時間も並び、順番が来るのを待っていたといいます。
念術師と呼ばれる先生が一人に念を送る時間は「ほんの数秒だったかも・・・。とにかく、あっという間だったよ」と母は言います。数時間並び、ようやく僕の番が来ました。「この子はどんな病状ですか」。先生はそう尋ね、母が説明すると、先生は僕の頭や体に手をかざし、願いと気合いを込めて「へい! やー! とー!」と気を送ってくださいました。
そして家路に帰ろうとしていたときのことです。石のように硬く、手も足も曲がり、全く動きもしなかった僕の左手がかすかに動いたといいます。信じられないような現実。家に着き、時間がたとうと、わずかながらにも僕の左手は動いたそうです。両親は驚きと喜び、うれしさでいっぱいだったと思います。
当時、念術の先生は岡山県に住んでおられたそうです。「もっと良くなるかもしれない」。両親は希望を持ち、僕を連れて東京と岡山を何回も往復し通い続けたそうです。しかし僕の体は、「左手が動いただけで、残念ながら右手や両足が動き出すことはなかった」。そう母は話してくれます。
小学生に入学する前、僕は体に機能障碍を持った子どもたちが通い、診療・リハビリを受けながら一日を過ごす「東京都立北療育医療センター・城南分園」に通っていました。朝、母が僕を分園に送り、僕は同じ障碍を持った子どもたちや先生たちと遊んだりリハビリを受けたりしました。分かりやすく言うと、保育園のような感じでしょうか。
夕方になると、子どもたちのお母さんが迎えに来ます。それは、どこにでもある保育園や幼稚園の帰りの風景と同じです。ただ違うとしたら、通っている子どもたちがみんな体に障碍を持っているということだけです。
「皆さんさようなら。先生さようなら」。帰りの会が終わると、迎えに来たお母さん方が子どもたちのいる教室に来て、わが子を抱き、家路に就きます。そんな中、僕の母は教室まで迎えには来ませんでした。
帰りの時間、母は分園の玄関で「憲ちゃん、帰ろう」と僕を呼んでいました。他の子どもたちがお母さんに抱きかかえられて帰っていく中で、「少しでも体が動かせるように」と訓練を兼ねて僕を教室から玄関まで自分で来るようにしてくれていたのです。
幼い頃であまり記憶にはありませんが、教室から玄関までは何十メートルの長い廊下だったのでしょう。「憲ちゃん、帰るよ」と呼ぶ母の元に、僕はハイハイをして進んでいきます。
しかし、途中には職員室や他の教室がありました。母が呼ぶ中、僕は職員室や教室のおもちゃなどに興味津々だったらしく「ハイハイでちょっと移動してきたと思ったら、興味や気になることがあると、そこで止まってはあっちでキョロキョロこっちでキョロキョロ。なかなか玄関まで来てくれなかった」。そう話します。
そんな僕のことを母は、根気よく呼び、待ち続けていました。「帰るまでに1時間ぐらいかかっていたよ」と、当時のことを話してくれます。
体の障碍と同時に、僕は言語にも障碍を持って生まれてきました。今では聞き取りにくい言葉や発音しづらい単語などはあるものの、日常会話をするにもさほど不自由もなく話せ、会話を楽しむことができますが、幼い頃は言葉を話すことができませんでした。
言葉を発することができず、声を出すということは泣くことでした。「お前は弱虫でとにかく一日中泣いていたよ」。周りから“泣き虫憲”と呼ばれていたぐらい泣き虫の子どもでした。
そんな僕に母は「言葉を話すことができるようにさせてあげたい」と、週に1回言語訓練を受けさせることにしました。あいうえおの練習、そして吹き戻し(縁日でよく見る、息を吹き込むとピーヒャラと鳴るおもちゃの笛です)を使い、息を吹く訓練が始まりました。
しかし、何回やっても僕は声を出すことができませんでした。吹き戻しや笛も全く吹くことができず、中が僕の口から出てくる唾液でいっぱいになるだけでした。何十回と訓練に通い、繰り返し練習をしても、僕は声を出すことや息をうまく吹くことはできませんでした。
全く成果が出ない僕に、母は先生から「この子はこれ以上訓練を続けても話せるようにはなりません。見込みがない。諦めてください」と言われ、「見放されてしまった」といいます。
それから月日がたったある日、家でのんびりしていると、僕は、口から小さな声で“か”という言葉を発したそうです。「ハエが飛ぶような本当にかすかに聞こえる声だった」と母は言います。
それは母さんの“か”だったのかもしれません。母は僕のそばで家事をしていたのでしょう。その時発した“か”という言葉は、たったの1回でした。聞こえるか聞こえないかの小さなたった1回の声を、母は聞き逃さなかったのです。
初めて僕の声を耳にした母は、驚きとうれしさでいっぱいだったそうです。もしあの時、母が僕の声を聞き逃していたとしたら・・・。そして気付いていなければ、僕は今も言葉を出して自由に話すこともできないでいたかもしれません。
僕の小さい“か”という声を聞いた母は、見放された言語訓練の先生のところに行きました。「この子が“か”って言葉を出したんです。“か”ってしゃべってくれたのです。この子はきっとしゃべられるようになる。だからこの子に訓練をしてください。お願いします」。必死になって頼み込んでくれました。母の熱く必死の決意に先生は、僕の訓練を再開してくれました。
訓練を再開したものの、何度やっても声を出すことができませんでした。言葉を出そうとすると、体全体が緊張して声が出せなかったのです。僕が本当に“か”と言ったのか、その声を聞いていない先生は疑っていたようで「お母さん、無理です」と言いましたが、母は「しゃべられるようになる」と信じ、僕に訓練を続けさせました。
訓練の効果があったのでしょう。僕は、“か”という言葉を自然に言えるようになっていきました。母は言います。「あんたは何を見ても“か”。何か動くと“か”。そして、ハエを見つけると“か”。とにかく何でも“か”だった」と。
やがて、僕は養護学校の小学部に入学します。入学した頃少しずつ訓練の成果が表れ始めました。一番初めに“か”としゃべってから何年たっていたのでしょう。僕は簡単な言葉や単語を話せるまでになりました。
しかし、言葉として普通にしゃべられるということが難しく、なかなか思うように話すことができませんでした。そこで、先生は僕の頭を支えるようにして首筋部分を抑えてくれました。すると、ゆっくりとした口調で話をすることができるようになっていったのです。
僕は、今も言語障碍があります。仲間や慣れている方であれば、不自由を感じることなく僕の話を聞き取ってくれます。しかし、どうしても聞き取りにくい発音や単語などがあります。
僕が話をしてどうしても聞き取れない言葉などが出てくると、特に初めての方など「分からないと聞き返すのは失礼だ」と思い、聞き取れないまま最後まで話を聞かれてしまうことがあります。「聞き返したら申し訳ない」。きっとそのように思ってしまうのでしょう。
僕は仲間にこう言います。「聞き取れなかったら、聞き返してね。僕は何百回でも、分かるまで話すから」
言語障碍を持つ者にとって、話を分かったようなふりをして、本当は聞き取れないでいたなどということが一番嫌なことです。そして、分かったようなふりをすることは、その方を傷つけ、かえって失礼になります。
ですから、言語に障碍がある方と話をして聞き取れないときは「すみません。もう一度お願いします」と何度でも分かるまで聞き返してください。障碍のある方は、きっと分かってもらえるまで何度でも話してくれます。
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