ソーニャさんに送られ、ノボシビリスクからモスクワへと向かった。ここでは重要な使命が待っていた。日本を出る時、ベントの友人から、モスクワ地下教会の案内をしてくれる兄弟を紹介されていた。まず彼とコンタクトをとることが必要だ。日曜日の正午、ゴーリキーとおりのプーシキン・スクェアで写真を撮れば、案内人が連絡すると書いてあった。正午がだめなら三時。それでもだめなら五時。その日コンタクトが取れなければ、月曜日の朝九時。それでもだめならどこへでもどうぞ、という手紙だった。
地名をしていされても、ロシア語も読めない。あちことで尋ねながら、やっとのことでたどり着いた。有名な詩人プーシキンの彫像も見つけ、アイスクリームをなめながら、正午を待っていた。正午になり、カメラを向けシャッターを切った瞬間、一人のひげ面の男が英語で話しかけてきた。「英語が話せますか?」一瞬彼だと思ったが、もらった写真の男にひげはなかった。不信に思い足元に目をやると、ズボンが写真のものといっしょだった。「ええ、英語を話します。日本から来ました」。「私は日本から来る友人を待っていました。さあ歩きましょう。私と歩調を合わせて、できるだけ速く歩いてください」。歩きながら多くの質問をし、紹介されていたヤーヌスに間違いないことを確かめた。二人で赤の広場やメトロをうろつき、カフェテリアで何かわけの分からない物を食べた。何と六時間も歩きどおしだった。
それから彼は私をモスクワ・バプテスト教会へ連れていった。当時夕方の礼拝に1000人近くが集まり、日本からも代表団が出かけ、共産主義の国にも信仰の自由があると宣伝された教会である。しかし、人口600万のモスクワで唯一のプロテスタント教会である。1000人集まっても不思議ではない。私は一番良い席に案内されたが、ヤーヌスは中に入らず、近くの公園で私を待っていてくれた。礼拝では、洗練された賛美、すばらしい説教を聞くことができた。しかしヤーヌスは、あれは教会ではないと言う。外国人に見せるための集会だとまで言った。それが事実かどうかは分からないが、当たらずとも遠からずで、日本の福音派の人々でさえ、その教会の様子を見て、共産主義の中にも信仰の自由があるなどと書いていた。真の自由は、選択することの中にある。選択の余地がなければ、真の自由はない。真理を知った時、真理は私たちを自由にする。イエス・キリストを知ることこそ、真の自由になる道である。
ヤーヌスは再び私を連れると、大急ぎで公認教会を離れた。メトロを何回も乗り換え、さらにバスに乗り、日本の団地のような住宅密集地へ着いた。団地の中には、ペンテコステ地下教会の指導者が二十名ほど集まっていた。熱い歓迎を受け、くちびるにブチュと口づけされた。口づけで歓迎するのが、最高の親愛の情の現われだという。
それから夜の十二時まで、ヤーヌスの通訳で話が弾んだ。ホテルに戻ったのは深夜の一時で、門番がけげんな顔をしながら入れてくれた。翌日もヤーヌスと待ち合わせて、その家に行き、持っていた聖書もおみやげも全部おいて帰ることにした。
指導者の中に、天使もかくやと思わせるほどに輝いた顔の兄弟がいた。彼はしきりに、モスクワの後のどこに行くのかと聞いてきた。レニングラードからヘルシンキに行くことを知ると、何回も「ベントに会ったらよろしく伝えてくれ。前のように電話もかけてほしい。機会があればまた訪ねてくれ」と繰り返した。
ヘルシンキに行き、迎えに来たベントにそのことを伝えた。彼は澄み渡るヘルシンキの空を見上げ、涙を浮かべながら、その兄弟こそ自分が裏切ったアナトリその人だと言った。ベントの顔は、赦された者だけがもつ、へりくだりで輝いていた。私はその時、アナトリの輝きの秘密を知った。主が赦してくださったように赦し合う時、赦した者も赦された者も、輝きの中に生きることができるのだ。これが共産圏宣教の最大の収穫だったようにさえ思う。
(C)マルコーシュ・パブリケーション
榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)