大会の4日目には交流会が行われました。各国の参加者がそれぞれ考え、歌や踊り、ゲームなどを披露し、盛り上がりました。僕はこの交流会にとても大切な時間を感じています。ある意味においては、テゼの大会で僕が最も大切にしている部分でもあります。僕は、インドやフィリピンで行われた大会でもスピーチさせていただきました。それが大会に参加する僕の大きな役割、仕事だと思っています。誤解を恐れずに言うならば、「メッセージを伝えるためにやってきた」とも思っています。
韓国に飛ぶ数週間前から、僕は話す内容を考え、原稿作りを始めました。伝えたいことがたくさんある中で、短く明確に分かりやすく、限られた時間の中で何をどのように伝えようか考えました。
障碍(しょうがい)を持って生まれてきて、誰かの手を借りながら生活しているということ。お互いの信頼がなければ僕の生活は成り立たないということ。僕が当時、仙台で担当していたクラスや活動のこと。「ありがとう」という感謝の思い。東日本大震災のこと。そして、テゼの大会にハンディ(障碍)を持った仲間も参加してほしいという思い。一番伝えたいこれらのことをまとめ、仲間と相談しながらスピーチの原稿を作っていきました。
静かに耳を傾けてくれる300人の前で、僕が日本で話し、英語、韓国語へと通訳してもらい、僕はゆっくりと自分の思いをかみしめながら話していきました。
スピーチをしているとき、僕はいろんなことを思い、話していました。話す原稿に込めた言葉の意味。韓国に送り出してくれた仲間や、一緒に参加した仲間について。東日本大震災の被災地。自ら経験し、見て感じ向き合っている今の現実。その場面、場面を思い浮かべて話し、気が付けば自分の言葉には自然と力が入っていました。
《交流会スピーチ内容》
皆さん、こんにちは。僕の名前は、憲です。日本から来ました。僕は障碍を持って生まれてきました。生まれつき身体が不自由です。そのため、僕は誰かの手を借りなければ生きていけません。朝起きてトイレに行ったり、歯を磨いて顔を洗ったり、食事をしたり、外出したり、お風呂に入ったり、布団に入って寝るまで・・・。全てにおいて誰かの手を借りながら日々の生活を送っています。多くの方の支えがあって、僕は生活することができているのです。相手のことを信頼し全ての身を委ねる。僕の生活は、お互いに信頼というものがなければ成り立ちません。そして僕は、「ありがとう」という気持ちを大切にしています。「傍らにいてくれて、支えてくれてありがとう」。車イスでアジアなどを旅していると、僕のことが珍しくてジロジロ見られたりします。「見られることが仕事だ。どんどん見てくれ」。そんな考えの僕は、「見てくれて、ありがとう」という気持ちになります。
そんな僕ですが、日本で自分にもできるさまざまな活動をしています。その中の一つとして、青年たちが集う仙台青年学生センターという場所で「共に生きる」というクラスを担当しています。そこでは、僕がオリジナルに考えたワークショップをしたり経験談を話したりしながら、障碍者のことや弱い立場の人たちのこと、自分・相手・仲間・信頼・思いやり・命・コミュニケーション・・・など、普段あまり考える機会がないけれど本当は大切なさまざまなことについて、楽しく青年たちに新たな気付きと学びの場を提供しています。
2011年3月11日、日本の東北を襲った大震災。東北の仙台という街に住んでいる僕は、あの震災に遭いました。今でも思い出すと、あの恐怖がよみがえってきます。一人で動くことができない僕は、多くの仲間に助けてもらい、多くの仲間が心配をしてくれました。2年半が過ぎた今なお復興が思うように進まず、仮設住宅などで厳しい生活を送っている方々がたくさんおられます。そして日本はもとより、世界中の皆様からさまざまな形での温かいご支援を頂いております。一言では言い尽くせないほどの感謝の思いでいっぱいです。
毎回、このテゼの大会に来て感じることがあります。それは、「僕のようなハンディを持たれている方々の参加者が少ない」ということです。僕は思います。「テゼの大会だからこそ、ハンディを持った方も参加し、共に祈り、共に過ごしてほしい」と・・・。この大会が終わり、皆さんの町や村に帰ったら、ぜひこのことを多くの仲間に伝えてください。そしてハンディを持っている仲間がいたら、「今度の大会に一緒に行こう」と誘ってみてください。次回の大会にハンディを持った多くの仲間が参加してくれることを楽しみにしています。
今日は僕の話を聞いてくださり、ありがとうございました。
スピーチを終えた後、ブラザーが僕の手を握り、こう言ってくださいました。「ありがとう。とてもいいスピーチだった」
大会の期間中、僕は多くの青年たちと出会い、話すことができ、仲間になることができました。一緒に写真を撮り、話をしました。そして車イスを押してもらい、食事やトイレ、お風呂などの介助もしてもらいました。日本の仲間以外にも多くの青年たちが手を貸してくれ、手伝ってくれました。
「大会に参加している全員に声を掛けてもらい、全員と話し、全員と出会うことができたのではないだろうか」と思いました。多くの仲間が声を掛けてくれました。僕が読めるようにと、日本語で自らの思いを書いてくれた手紙やプレゼントを持ってきてくれる青年たちもいました。「フィリピン大会の時、声を掛けたかったけど掛けられなかった」と話してくれた女性もいました。一人一人の出会いは、どれも忘れられない大切な出会いでした。
多くの出会いの中で、僕にとって印象的だった出会いを一つ紹介したいと思います。それは、中国から来た21歳のとてもきれいな女性との出会いでした。僕が食事を済ませ、のんびりしていると、「あなたとゆっくりと話がしたい。伝えたいことがある」と僕の所に来てくれました。英語が話せない彼女と僕。そこで通訳してもらいつつ、筆談で会話をしました。彼女が僕に伝えたかったこと、それは「南京大虐殺」に関する彼女の思いでした。
《中国・21歳女性の筆談内容》
I hope I can forgive your country's people from the bottom of my heart, because I have seen many movies ex. 南京大虐殺, the comfort woman. When I saw them, my heart was hurt deeply. But now I hope we can be friends by the love of our Lord. I was moved by you. He 他的身体, 行動不方便, but he still comes here.
僕の姿や行動を見ているうちに、彼女の中にある日本に対する“怒り”や“憎しみ”しかなかった思いが変わったそうです。僕は思います。それは21歳になる若い女性の口から語られるような話でしょうか。また、そういった思いや感情を持たせてしまっていいのでしょうか・・・。彼女は目に涙を浮かべながら、僕に複雑な胸の内に秘めた思いを伝えてくれたのです。僕は「こんな社会でいいのだろうか」と衝撃を受け、ショックでした。この現実を少しでも皆さんと共有し、「何かを感じてもらえたら」と思い、簡単に書かせていただきました。
テゼの大会を通して、僕は多くの気付きと学びを与えられ、そして多くの出会いや経験をさせてもらいました。5日前に成田空港で出会ったばかりなのに、旅行中僕と一緒にいてくれ、サポートしてくれた友人と帰国の途に着く機内で、僕は今まで誰にも話したことのないような話を仲間にしていました。あまり自分の苦労話など話すことはしないのですが、共に過ごしてくれた5日間、話をしているうちに、僕はその仲間と、「脳性麻痺」という障碍を持って生まれたこと、さらに気が付けば、今の自分になるまでのさまざまな出来事や葛藤などを自然と話すことができるような関係にまでなっていました。
こうして僕がこの大会に参加することができたのも、多くの素晴らしい仲間のおかげだと感謝しています。日本で準備などをして送り出してくれた仲間がいます。支え、一緒に旅をしてくれ、サポートしてくれた仲間がいます。そして、ブラザーや大会で出会った青年たち。それは、「ありがとう」という感謝の気持ちでいっぱいの旅でした。
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有田憲一郎(ありた・けんいちろう)
1971年東京生まれ。72年脳性麻痺(まひ)と診断される。89年東京都立大泉養護学校高等部卒業。画家はらみちを氏との出会いで絵心を学び、カメラに魅力を感じ独学で写真も始める。タイプアートコンテスト東京都知事賞受賞(83年)、東京都障害者総合美術展写真の部入選(93年)。個展、写真展を仙台や東京などで開催し、2004年にはバングラデシュで障碍(しょうがい)を持つ仲間と共に展示会も開催した。05年に芸術・創作活動の場として「Zinno Art Design」設立。これまでにバングラデシュを4回訪問している。そこでテゼに出会い、最近のテゼ・アジア大会(インド07年・フィリピン10年・韓国13年)には毎回参加している。日本基督教団東北教区センター「エマオ」内の仙台青年学生センターでクラス「共に生きる~オアシス有田~」を担当(10〜14年)。著書に『有田憲一郎バングラデシュ夢紀行』(10年、自主出版)。月刊誌『スピリチュアリティー』(11年9・10月号、一麦出版社)で連載を執筆。15年から東京在住。フェイスブックやブログ「アリタワールド」でもメッセージを発信している。