『アポロンの島』などで知られるクリスチャン作家、小川国夫(1927~2008年)の幻の台本『ヴァンデの鐘』が発見された。同作品は、小川がまだ無名だった東京大学在学中に書いたとされる宗教劇の戯曲で、当時通っていた静岡県藤枝市の藤枝カトリック教会会報「Columba(コルンバ)」と共に発見された。毎日新聞などが伝えた。
台本は、わら半紙のB5判約20ページ。小川の旧制志太中(現・藤枝東高)の後輩で同教会にも通っていた東京都練馬区在住の長渡朗(ながと・あきら)さん(82)が保存していたものを、小川研究の第一人者である桜美林大学教授の勝呂奏(すぐろ・すすむ)氏が発見し、作品内容などから本人のものと判断した。『ヴァンデの鐘』は、作家になる以前の小川が1951年、教会のクリスマス演劇のために書いたもので、52年1月にも慰問先の同県御殿場市にあるハンセン病療養施設、神山(こうやま)復生病院で再演され、長渡さんも出演したという。
1927年に同県藤枝市に生まれた小川は、病弱だった少年期に文学や絵画に親しみ、その中でキリスト教に触れ、旧制静岡高等学校時代にカトリックに入信している。その後東京大学国文科に入学し、私費でフランスへ渡り、パリ・ソルボンヌ大学に留学。留学中にスクーターでヨーロッパ各地を放浪し、その経験を自伝風にまとめた『アポロンの島』を刊行したのが30歳の時。同じクリスチャン作家である島尾敏雄(1917~86年)から称揚されたことが契機となり、文壇にデビューした。
著作には『或る聖書』『試みの岸』『彼の故郷』などがあり、簡潔な文体で、光と影の原初的光景の中に、自然や神と人間との関わりを描き出した作品を発表し、古井由吉、黒井千次らと共に内向の世代を代表する作家と見なされている。川端康成文学賞をはじめ文壇における主要な賞を多く受賞し、2000年には、日本芸術院賞も受賞。05年には日本芸術院の会員になっている。また、『聖書 新共同訳』の翻訳事業に作家の立場から協力した。
文芸評論家でクリスチャンの富岡浩一郎氏は、小川作品におけるキリスト教の要素は、若い日にヨーロッパの放浪を通して体験したものが身体化され、日本語の新しい文体、スタイルとしてまず表れているという。また、「近代以降、西洋の宗教としてキリスト教に関心を寄せた作家は多いが、彼のように聖書の世界とキリスト教を、自己の精神のみならず、身体的な次元で受け止めることができた作家は、それほどいなかった」と発言している。
毎日新聞によると、『ヴァンデの鐘』について勝呂教授は、演出や時代考証の点で未熟さが見られるが、宗教と文学を一つに考える小川文学の特質が既に表れており、小川文学の原点だと評価している。一緒に見つかった藤枝カトリック教会の会報についても、「教会を挙げて留学に送り出すなど、小川と教会の関わりが分かる」と指摘している。
静岡県藤枝市に生まれ育った小川は、自らを「枝っ子」(えだっこ)と呼び、生涯、故郷の藤枝で執筆活動を続けた。藤枝市郷土博物館・文学館には、「小川国夫の書斎」のイメージが再現され、藤枝市民ゆかりの作家として愛され続けている。