1853(嘉永6)年7月8日、日本の開国を要求するため、浦賀沖に黒船を率いて来航したペリー。翌年3月31日に日米和親条約が横浜で調印されて以来、この地から発信され、その後の日本文化に影響を与えたものは数多い。西洋音楽もその一つだ。
現在、横浜開港資料館(横浜市中区)では、「その音、奇妙なり ~横浜・西洋音楽との出合い~」と題した企画展示が行われている。黒船来航の様子を描いた絵巻、大きな楽器を鳴らす「軍楽隊」を先頭にパレードする外国の軍隊の様子を描いた浮世絵など、当時の貴重な資料が展示されている。15日には、キリスト教音楽、賛美歌学などに関する著書も数多い秋岡陽氏(フェリス女学院大学学長)を招き、連続講座「音楽で語る横浜洋楽史」(全2回)の第1回目「ペリー来航と[日本語]賛美歌の誕生」と題した講座が開催され、市内外から85人の参加者があった。
講座は、日本が鎖国を貫いていた江戸時代の音楽を振り返ることから始まった。人気を博した人形浄瑠璃や歌舞伎などで太鼓や小鼓・三味線が演奏され、劇場以外の場でも三味線、箏曲、尺八、胡弓(こきゅう)などが好まれた様子が紹介された。しかし開国後、来日した宣教師が記した日本滞在記には、これらの音楽を「とても音楽とは思えなかった。野生の動物が叫んでいるのかと思った」と記されており、外国人には奇妙な音に聞こえたという。
ペリーが来航すると、横浜の音楽は一変する。長旅を続けたペリー艦隊の船員の中には、航海中、命を落とす者もいた。遺体を元町(現在の横浜市中区 元町プラザ付近)に埋葬したが、その葬儀の時には、横浜の街に初めてヘンデルのオラトリオが鳴り響いたと故笠原潔氏の研究が紹介された。
「開国以降、さまざまな音楽が入ってきているが、明治初期に日本人が西洋音楽を受容した三つの形態について注目していきたい。一つは軍楽、二つ目は賛美歌、三つ目に子どもたちが学校で歌うようになる唱歌。このうち、軍楽と賛美歌は、横浜のような限られた場所で一部の日本人に受容されたが、唱歌は当時の政府が『正しい日本語を歌から覚える』ことに注力し、全国で歌われるようになった」と秋岡氏は話す。
賛美歌は当初、宣教師たちによって英語で歌われていた。1859年にはアメリカからフルベッキ、シモンズ、S・R・ブラウンの3人の宣教師が来日。ブラウンは、先に上陸していたヘボンと共に横浜の成仏寺を間借りして日本語の勉強にいそしみ、後に聖書の翻訳も始めた。「ブラウン夫人は来日の際、船にピアノを積んで来たと伝えられている。音楽が相当好きだったようですね」と秋岡氏は語る。1869年には、メアリー・E・キダーが来日。本格的に日本でプロテスタント宣教が始まった初期の女性宣教師の一人になった。キダーは、日本の女性が十分な教育を受けられていないことを憂い、日本で最初の女子ミッションスクール「フェリス女学院」の礎を築いた。
当時の宣教師は、多くの書簡を母国に送り、当時の日本の様子を事細かに報告している。1871年にキダーが書いた書簡には、「子どもたちが『Jesus loves me(主われを愛す)』などを上手に歌えるようになった」と書き記しているが、「これが、日本の子どもたちが英語で賛美歌を歌ったという最古の記録ではないか」と秋岡氏は話す。また、同年来日したメアリー・プライン宣教師は、「賛美歌も祈りも知らなかった子どもたちが、3カ月も経たないうちに、食前に祈るようになり、英語で賛美歌を歌えるようになった」と手紙を孫たちに送っていることも紹介された。
現在でも、日本の多くの教会で親しまれているこの賛美歌は、当時の賛美歌集『Happy Voices』『Children Praise』にも収められており、「この2冊が、日本で初めて使用された賛美歌集の一つではないかと思われる。『Jesus loves me』は、この2冊ともに収められているが、メロディーが全く違う。どちらのメロディーで歌われていたのかは定かではない」と秋岡氏。また、江戸時代の音楽を引きずっていた日本人にとって、オルガンやピアノに合わせて英語で歌を歌うのは容易ではなかった。しかし、子どもたちの耳には、新しい音楽もすんなりと受け入れられ、それを上手に歌うことができたのだという。講座では、この二つのメロディーを秋岡氏が電子オルガンで弾き、参加者全員がそれに合わせて歌った。「Jesus loves me」と同時に、横浜で歌われた賛美として記録に残っているのが、「Savior like a shepherd lead us(牧主[かいぬし]わが主よ)」「Little drops of water」「Happy Land」の3曲。これらの曲も、子どもたちが口ずさんだとされ、講座でも英語をたどりながら、参加者全員で歌った。
その後、英語の賛美は日本語に訳されたが、英語の歌詞にのせたメロディーに、日本語の訳をつけることに大変苦労をしたようだ。早稲田大学の大隈重信文書には、「Jesus loves me」を「エスワレヲ愛シマス(イエスわれを愛します)」と記されている。講座では、「1872(明治5)年訳」として、以下のように伴奏に合わせて歌ったが、言葉が余ってしまったり、逆に足りなかったりと非常に困難なことを実感した。
エスワレヲ 愛シマス
サウ 聖書 モウシマス
彼レニ子供中
信スレバ 属ス
ハイ エス愛ス
ハイ エス愛ス
ハイ エス愛ス
サウ 聖書 モウシマス
日本の教会に今も残る賛美歌は、こうした宣教師やその周りにいた子どもたちによって歌い継がれ、やがてそれが音符になり、歌詞を日本人が歌いやすいよう日本語の意訳に書き換えられてきた。宣教師と共に子どもたちを遣わされた主の御業。日本の幼子が歌う賛美を、イエス様もきっとお喜びになったのだろう。
秋岡陽氏による第2回目の講座「音楽教育と唱歌の普及」は、12月13日に開催される。申し込みは締め切られており、追加申し込みは不可。