邦題は『裁かれるは善人のみ』となっているが、原題の『LEVIATHAN』は、旧約聖書のヨブ記やイザヤ書に描かれる海の怪物リヴァイアサン(レビヤタン=新共同訳聖書)を指す。それを意識すると、分かりやすいとはいえない、この理不尽な物語を理解する糸口になるだろう。
監督のアンドレイ・ズビャギンツェフはロシアのノヴォシビルスク生まれ。私が彼の作品を見るのは、2003年のデビュー作『父、帰る』以来2作目だ。『父、帰る』は、長い間不在だった父が帰宅し、息子二人と湖の中にある島にキャンプに出掛けるシンプルなストーリーだった。寡黙でほとんど物も語らない父、なかなか通じ合えない息子と父の関係の描き方、そして親子を囲む自然の壮大な美しさに圧倒される作品だったことを今でも思い出す。当時39歳の監督が初めての作品でソ連出身のタルコフスキーやソクーロフらの巨匠を思い出させるような重厚な美しい作品をよくぞ撮ったと驚いたものだった。
それから11年後に作られた本作でも、人間を寄せ付けないロシアの大地の荒涼とした圧倒的な美しさは健在だ。2時間10分の間、ため息を付くような美しい自然の姿が繰り返し映し出され、どれほど眺めていても見飽きることはない。それはもはや神話の世界のようにすら思える。しかし、その自然の中にある街で繰り広げられる人間模様は、政治と男女の愛が絡み合うドロドロしたものだ。
主人公のコーリャと妻リリア、そして前妻の間に生まれたロマの住む一家は、強欲な市長の開発計画に巻き込まれ、土地を収用するための裁判で争うことになる。そこでコーリャが旧友の弁護士ディーマをモスクワから呼び寄せるところから、物語は始まる。
強欲な市長は権力に物を言わせ、強引に裁判を進める。そこで・・・。
ここでテーマとなるのは、つつましく暮らす家族や個人を呑み込み押し流していこうとする政治の容貌だ。それはトマス・ホッブスが政治哲学書『リヴァイアサン』で書いたものそのものだ。この映画と同じタイトルを持つ1651年に刊行した著書でホッブスは、人間は自然状態のままでは争い(万人の万人に対する闘争)を起こす生き物であり、その混乱を避けるために個人は国家に権利を譲渡し、社会契約を結んだと定義した。そして個人が抵抗することができない最強の存在である国家を象徴するものとして、旧約聖書に描かれる海の怪物、「LEVIATHAN(リヴァイアサン)」の名前を付けた。
リヴァイアサン(レビヤタン)は、旧約聖書のヨブ記では以下のように描かれている。
「お前はレビヤタンを鉤(かぎ)にかけて引き上げ その舌を縄で捕えて 屈服させることができるか」(ヨブ記40:25)
「彼がお前に繰り返し憐れみを乞い 丁重に話したりするだろうか。彼がお前と契約を結び 永久にお前の僕(しもべ)となったりするだろうか」(ヨブ記40:27、28)
「彼の上に手を置いてみよ。戦うなどとは二度と言わぬがよい」(ヨブ記40:32)
「口からは火炎が噴き出し 火の粉が飛び散る。煮えたぎる鍋の勢いで 鼻からは煙が吹き出る。喉は燃える炭火 口からは炎が吹き出る」(ヨブ記41:11~13)
この作品でも政治権力を持つ市長は、司法・警察・行政を動員して主人公一家の土地の収用を進めようとしていき、個人である一家はヨブのようになすすべもなく翻弄(ほんろう)される。
そして市長室の壁にはプーチンの肖像画が掛けられている。ほんのわずかなカットなのだが、はっきりいって、悪役市長よりコワモテのボディーガードよりも無言のこの肖像画が、一番、怖い。本当に怖いのだ。それが「政治権力」を象徴しているからだ。
相当肝を据えてギリギリのラインに立って現代ロシアの政治批判をしていることがうかがえる。そして政治の背景には繰り返し教会の姿が描かれる。ロシア正教は旧ソビエト連邦時代は国家から弾圧されてきた歴史がある。しかし、ソビエト連邦崩壊後、再び復活する。監督のアンドレイ・ズビャギンツェフは、現代のロシアにおいて、教会が政治権力とつながりながら影響力を強め、強いロシアの再生という国家イデオロギーを図っていると捉えているようであり、教会の描き方も極めて手厳しい。
現に、エリートである主教は市長とも親しく、神と教会の名の下に、たびたび助言を与えている。
しかし、教会の描かれ方はそれだけではない。同時に、政治の圧倒的な権力に翻弄される主人公にヨブ記の物語を語り、慰めを与えようとするのも、エリート聖職者とは異なり、町や村に住み住民と共に貧しい生活を送る田舎司祭なのだ。
そこにロシア正教の両面性を垣間見ることができる。
ズビャギンツェフ自身はインタビューの中でこう語っている。
「私は教会に深い敬意を抱いています。しかし私が敬意を抱いているのは、映画で描いたような教会ではなく、教会の精神そのもの、です。(中略)映画で描かれるような壮麗な教会が建てられるためにどんな対価が支払われたのかを司祭は知らない、ということを強調しておくことは非常に重要でした」
宗教を否定し弾圧した共産主義の70年の時代ですら、しぶとく生き延びた教会と正教は、ロシアにおいて今も人々とも政治とも切り離すことができない現実であることを思い知らされる。キリスト教徒が1%未満で、良くも悪くも政治的にも社会的にも教会が微々たる影響力しか持ち得ない日本人からすると考えさせられる。
ちなみに旧約聖書で描かれる海の怪物リヴァイアサン(レビヤタン)は、中世には、女性にとりつこうとする伝承や、嫉妬をつかさどる悪魔ともされていたという。ラストまで見た時、この二つの意味もタイトルに込められていることに気付くだろう。
このように書くと小難しい映画のように思われるかもしれないが、繰り返すがこの映画の最大の魅力は、ちっぽけな人間の運命をはるかに越えた荒涼として美しい大自然の風景だ。重く陰鬱(いんうつ)な物語とあまりに対照的で、人間の卑小さを感じさせられる。
その大自然の中、家族や女性の情念や友情をも呑み込んでいく怪物「LEVIATHAN」の行き着くところはどこなのか? おそらく人間にそれを見届けることはできないだろう。それを知るのも、ただロシアの大地の自然のみなのだろうということが、あまりに美しすぎるラストの映像に込められているように思える。
見終えた後、タイトルの意味をさまざまに調べ、聖書の記述を読み直し考えてみると、この映画が極めてチャレンジングに現代のロシアの現実と切り結ぼうとしている作品だと気付かされる。あるいは、それは国家が強調され、個人や家族や道徳を呑み込んでいこうとする日本にも当てはまる物語なのかもしれないと思うと、他人事ではないのかもしれない。
■ 映画『裁かれるは善人のみ』予告編