次に、著書に『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件』(岩波書店、2014年)などがある元毎日新聞記者のジャーナリスト、中村一成(いるそん)氏が、「『私たち』はどのような時代に生きているのか」と題して発題した。中村氏は「差別というものが歴史的に何をもたらして来たのか。差別はいけないという規範が歴史的経験に向き合えば出てくるはずなのに、それを何となくないままにしてしまった部分が、今のヘイトスピーチにつながっている」と指摘した。
そして中村氏は、ヘイトスピーチは「個人ではなく属性に対する攻撃であり、同じ属性を持つ人間に広範囲な被害をもたらす」と述べるとともに、「ヘイトスピーチは犯罪化すべきだ」という立場を表明した。
「ヘイトスピーチは、マジョリティー(多数派)にとっては『不快』で済んでしまうが、当事者にとっては存在自体が脅かされる。もっと言うと、この社会で生きて自己実現していく前提というものが粉々にされてしまう」と中村氏は語り、「ヘイトスピーチの法規制をすべきだ。ただ、この国には差別を禁止する法律がない。OECD(経済協力開発機構)諸国では韓国と日本だけだ」と強調。
「差別は大した問題ではないというメッセージを日本政府は日本社会にまき散らしている。ここを食い破っていかなければいけないと私は思っている。『人種差別撤廃政策推進基本法』(案)が今(国会で)継続審議になっているが、来年これを何とか通さなければいけない。ヘイトスピーチ対策条例を作る動きについて、地方議会の議員に連絡するなどして、ぜひとも具体的な行動をお願いしたい」と中村氏は訴えるとともに、「ヨーロッパで差別が禁止されているのは、ナチスによる差別の過去と向き合ったからだ」と強調した。
そして最後に吉岡秀紀神父(大阪教区司祭)は、「『あなたもガリラヤ出身なのか』 教会の一員である自分は差別、排外主義にどう向き合うのか」と題して発題を行った。
吉岡神父は、「排外主義」は「“自分のこと”として捉えなければ、変わっていかない。自分が変わらなければ、何も変わらない」と述べた。そして、米国の同時多発テロが起きた2001年9月11日以前と以後で「“わたし”をつくってきたもの、“わたし”を変えてきたこと」として、1.自らがいじめの被害者であり加害者でもあったこと、2.自らの趣味でもある怪獣に隠されたメッセージとして、忌避され、排除されるものがあること、3.「お前はそのままでいいのか?」と音楽に揺さぶられること、4.イエスと出会うということは、一つには「お前、そのままでいいのか」とイエスが「揺さぶりをかけてくる」時であり、人と出会った時に立ち直り、人と関わる時であって、その中で自分が落ち込んでいる時に自分を支えてくれる人がいて、そういうところに、神の存在を感じていくことがあったという4つを挙げた。
そして、「9月11日以降、あちこちで戦争が起こるようになり、私の中に逃げ場がなくなってしまい、向き合わざるを得なくなって、あらためて聖書を読み直すことを始めた」と吉岡神父は語った。
吉岡神父はまた、福音書をどの視点で読むのかについて、イエスによる“癒やし”を「病気が治って良かった」という見方をしてしまい、ある人から「なぜ病気のままの自分を受け止めてくれないのか」と厳しく指摘されたという。それで、“癒やし”とは何かと思い、イエスの時代のユダヤ社会で病気の人にとってつらかったことは、病気そのものの苦しみに加えて、病気が罪のけがれの表れであると見なされ、「あの人は救われない」と見なされて人の中から排斥されていき、人とのつながりが断たれていったことであり、「それこそ、とてもつらいことだったのではないかと思う」と吉岡神父は語った。
「癒やしというのは、解放ではないか。解放としての癒やしが必要なのは誰なのか。『あの人はけがれているんだ。だからああなっているんだ』という人たち自身が、そういった思い込みや偏見から解放されることが必要なんだと思う。病気や障がいを持つ人たちとお互いに関わり合うことで、思い込みや偏見から解き放たれていくことが癒やしなのではないかと思う」と吉岡神父は述べた。
「ちょっと視点を変えると、苦しい状況に追いやられている人たちがいるのに、見ようとしないとか、見えてこないということに、私たちは知らず知らずのうちになれてしまっているのでは」と吉岡神父は指摘した。そして、釜ヶ崎で働いている本田哲郎神父が、「罪」や「悔い改め」「悪」「正義」「平和」など、教会の中でなじんだ言葉を問い直すよう話していることや、聖書学者の絹川久子氏がマルコによる福音書7章24~30節について「イエスでさえも差別をしそうになった」と指摘したことに言及。その上で、ヨハネによる福音書7章45~53節で「あなたもガリラヤ出身なのか」と言われたニコデモは「氷の刃で傷付けられるような思いをしたのではないかと思う」と吉岡神父は述べた。
その上で、吉岡神父は教会の現状について、「そういったいろいろなメッセージを福音から受けながらも、なかなかそこに立てていないと思う。信者であり教会の構成員であるということで、イエスの側に立っている、解放された側にいるという思い込みがあるのではないか。他者に対して、『神を知らない人』『救いにあずかれない人』『真理を知らない人』『罪深い人でかわいそうな人で哀れな人』だという見方をしてしまっているんじゃないか。あるいは施しの対象として見下したり、排外主義に対しても『神を知らない人がやっているんでしょう?』という見方をどこかでしてしまって、自分たちとは無関係という見方をしているのではないかと思う」と指摘。
「それこそ、排外主義への加担であり、苦しんでいる人の側に立とうとしてない、救い主だと信じているはずのイエスの生き方とは全く逆なのではないかと思う。そういう意味でイエスという方は揺さぶりをかけているのだが、私自身も震えない、そういう現実が教会にはある」と吉岡神父は述べ、「教会の中にも排外主義はある。イエス以前の救済観からしたら私たちは異邦人なのだが」と付け加えた。
そして、「キリスト者がキリストを生きようとするのなら、どう考えても排外主義というものに向き合っていかなければいけないと思う。少なくとも脇へ置くようなことはできないと思う」と吉岡神父は述べ、それは「自分の生き様というのを問い直して、キリスト者としての、イエスを生きる者としての“カウンター”(対抗)」だとした。
さらに、吉岡神父は、「イエス自身が、お生まれになって神殿にささげられた時に、シメオンから『反対を受けるしるしとして定められています』(ルカ2章34節)と言われているのが私には印象的だ」と述べ、「たとえ大きな流れに逆らうことになっても無関心でいられない。共感や連帯を生み出していくという意味で向き合っていかなければいけないと思う。排除しないということは言うに及ばず、弱い立場にある人に皆が合わせながら、誰もこぼれ落ちないように、そういう関係性を提示していく、自分の生き方を通してそれを生きていく、そういうことが私たちには求められているのではないかと思う」と結んだ。
■ 日本カト部落差別人権委、シンポ「人間のいのちと尊厳」開催:(1)(2)