カトリック夙川(しゅくがわ)教会(兵庫県西宮市)で、イエス・キリストの遺体を包んだとされる「トリノの聖骸布(せいがいふ)」のバチカン公認レプリカが公開され、9月27日には65年間にわたって聖骸布の研究をしてきたガエタノ・コンプリ神父(85)の講演が行われた。
夙川教会は、イタリアに留学して多くの翻訳をなし、『ミラノ 霧の風景』などのエッセーを残した作家・須賀敦子が洗礼を受けた教会で、遠藤周作が母に連れられて幼児洗礼を受けた教会でもある。遠藤は作品の中で、自身のキリスト教信仰を「母親に着せられた西洋仕立てのぶかぶかの洋服」と度々書いているように、彼の信仰の原点ともいえる教会だ。この日は200人以上が集まり、全国紙や地元新聞の記者なども取材に訪れ、レプリカや聖堂の様子などを撮影していた。
実物の聖骸布は、現在はバチカンが所有し、イタリア・トリノ教区が管理している。コンプリ神父が今年5月にトリノを訪問した際、長年の研究が評価され、原寸大の公認レプリカが寄贈された。聖堂の正面には、聖骸布からデジタルスキャンしたデータを下に、精密に再現された縦1・1メートル、横4・4メートルのレプリカが展示された。
コンプリ神父は、『これこそ聖骸布』など、これまで聖骸布に関する6冊の本を執筆した世界的な聖骸布研究者。聖骸布に初めて出会ったのは1950年、イタリアのサレジオ大学の大学生としてトリノにいた時だったという。55年に宣教師として日本に着任して以来、毎年聖骸布についての講演を行い、その数は千回近いという。50年には写真でしか見られなかった聖骸布を初めて見たのは、一般公開が行われた78年。聖骸布の前に立ち、大変な感激を覚えたという。
医学的な特徴
コンプリ神父はまず、「これだけさまざまな研究がなされた遺物は他に存在しません」と述べ、長年の調査により明らかになった聖骸布の医学的な特徴を説明した。
頭頂部は茨の冠をかぶせられ、出血した血がついており、肩からふくらはぎまで100以上のむち打たれた傷痕がある。十字架を担ったときの横棒による大きなかすり傷や、釘で手と足を貫かれた痕、脇腹をやりで刺された痕も観察でき、十字架刑に特徴的な肉体的な形跡が見られ、血液型は人間のAB型であることが判明しているという。
また、布には58種類の花粉が付着しており、13種類はパレスチナ地方にしか存在しない植物ということも分かっている。
歴史的な由来
聖骸布が最初に歴史の記録に現れるのは1353年ごろ、フランスのリレという町の聖堂に展示された時にさかのぼる。また、1204年にコンスタンティノープル(現イスタンブール)第4次十字軍に参加した兵士が、「この町にブラケルネの聖母マリア修道院があり、そこにわれらの主が包まれた亜麻布(sydoine)が毎週金曜日、まっすぐに立てられ、われらの主の姿がよく見える。ところが町が陥落した後、その布の行方についてギリシア人もフランス人も誰も知らない」と記しており、これが聖骸布だったのではないかと考えられている。さらに、1193年ごろに書かれた「プレイ写本」には、聖骸布と同じ特徴の絵が描かれているという。
最大の謎
最大の謎は、1898年に写真家が白黒写真を撮影したとき、初めて明らかになった。撮影のネガに男性の姿が立体的に浮かび上がってきたのだ。通常、写真を撮影すると白黒のネガができ、それを反転させることでポジ(写真)が焼き上がる。しかし、聖骸布自体が、「ネガ」となっていることが分かっている。
カメラのメカニズムも知られていない中世に、なぜ布にネガが焼き付けられているのか? 科学者の調査でも、「現在知られている物理的、科学的な手段ではこの現象を説明できない」とされている。
さらに近年、米航空宇宙局(NASA)の職員が、布に残された痕をコンピューターで立体化させたところ、男性の姿が浮かび上がってきた。一般的な平面写真からは、このようなはっきりとした立体像を再現することは不可能だという。
聖書の記述
イエスの埋葬について最も詳しいのは、ヨハネによる福音書で、20章4~10節には、イエスが埋葬された墓の記述がある。
亜麻布が平らになっている(keimena ta othonia)のが見えた。しかし、(ヨハネは)中には入らなかった。彼に続いてシモン・ペトロも来て、墓の中に入ってよく見ると、亜麻布が平らになっており(ta othonia keimena)、イエスの頭を包んでいた(epi tes kephales)、布切れ(sudarion)が、亜麻布と一緒に平らになってはおらず(ou keimenon)、元の所に巻いたままになっていた(entetulgmenon eis ena topon)。(ヨハネ20:4~10の一部、フランシスコ会訳)
動詞「keistai」の分詞形である「keimenon」は、布についていえば、「しぼんでいた」という意味になる。コンプリ神父は、遺体を包んでいたときには膨らんでいた布が、イエスが抜け出して「しぼんで平らになった」という様子を見て、ヨハネがそう記述したのではないかと説明した。
また、スペイン・オビエドにある聖堂には「オビエドのスダリオ(布切れ)」と呼ばれる布が残っており、そのレプリカも展示された。エルサレムにあったものが614年、ペルシアに占領された際に、エジプトに運ばれ、北アフリカを通り、スペインに運ばれたと考えられており、横83センチ、縦52センチの亜麻布で、大量の血痕があり、血液型はこれも調査ではAB型と判明したという(ただし、炭素14による年代測定は行われていない)。
この布切れは、イエスが十字架から降ろされ墓へ運ばれる途中、口に当てて血液などを受け止めるために使われたものではないか、とコンプリ神父は説明した。
コンプリ神父はまた、カトリックで伝わる、十字架を担ぐイエスの額を拭ったとされる聖ベロニカの伝承は、11世紀に初めて資料に現れるものであることも説明した。
炭素14による放射性炭素年代測定
大きな議論を呼んでいるのが、聖骸布の年代測定だ。1988年に英オックスフォード大学の研究者によって炭素14による放射性炭素年代測定が行われ、聖骸布が1260年から1390年の間のものであると科学誌『ネイチャー』に発表された。しかしこの測定に対しては、測定のために切り取った場所が布の端であり、聖骸布が何度も火災に遭って水をかけられ、さらに150回以上も展示され、多くの人の手で握られているため、正当な測定がなされたのか疑問の声を上げる研究者も多い。
聖骸布を信じるかは一人一人の判断
講演の終盤、コンプリ神父はほほ笑みながらこう語った。「ただし、カトリック教会はこれがイエスのものとは宣言してはいません。聖骸布を信じなくても異端ではありません。それは一人一人の判断です」。そして、「聖骸布があるからイエスを信じるわけではない。布が本物でないからといって、信仰が変わるわけではない。しかし、聖骸布を前にすると、イエス・キリストの受難をリアルに感じ、深く黙想することができる。多くの人がそれに心の目を向けてほしい」と語った。
そして最後に、「私の研究の専門は教会史です。聖骸布が本当にイエスのものかどうかは、これからも科学的に証明することはできないでしょう。しかし、中世の歴史や芸術、医学、法医学、科学、植物学、繊維学などが詰まっている貴重な資料であることは間違いありません」と述べた。