2016年の世界文化遺産登録を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の現地調査が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)によって行われている。現地調査は約1週間にわたり、2県8市町にある全14資産を回り、10月4日まで続く。
調査初日の27日には、長崎県南島原市の原城跡と日野江城跡を、調査員であるフィリピンの建築家ルネ・ルイス・S・マタ氏が訪れた。視察は、他の世界遺産の現地調査同様、厳しい報道規制の下で行われ、調査員への質問などは一切受け付けていない。マタ氏はこの日、文化庁や長崎県、南島原市の担当者から説明を受け、両城跡をそれぞれ約2時間ずつかけて視察した。南島原市によると、その間の調査はスムーズに進んだという。
原城跡と日野江城跡は、キリスト教の伝来や弾圧の歴史を知る上で貴重な城跡だ。原城は、徳川時代のキリシタンの大反乱として知られる「島原・天草一揆」(1637〜38年)の舞台となった城。幕府軍の攻撃とその後の処刑により、最終的に原城に籠城した老若男女3万7千人全員が死亡し、生き残ったのは内通者一人だけだったとされている。城跡からは十字架やメダイなど、キリシタン遺物が多数発見されている。
一方、日野江城は、肥前西部で最大の勢力だった有馬氏の居城。13代目当主の有馬晴信(1567〜1612)がキリシタン大名となり、キリシタンを保護しただけでなく、領民にもキリシタンになることを勧め、積極的に国際交流を推進した。江戸時代初期、晴信は400万石を領し、島原藩の藩庁となった日野江城は、城下に教会や晴信が建設したセミナリヨ(神学校)があり、かつては日本のキリシタン文化の最先端の街だった。その繁栄を示すように、近年、金箔(きんぱく)瓦や外来系の石垣遺構などが発見されている。しかし、その繁栄は長く続かず、晴信は1612年に岡本大八事件に連座した罪により処刑されてしまう。
両城跡は、天守閣もなく石垣や石の階段などが残るのみだが、世界に類を見ない布教の歴史を物語る資産となっている。両城跡がある南島原市では、今回の調査のために、事前のリハーサルを3回行い本番に臨んだという。また、市民や職員による清掃活動などが積極的に行われ、世界遺産への登録ムードが高まる中で視察が進められた。
イコモスは今回の調査を終えた後、来年4~5月に「登録」や「不登録」など、4段階評価でユネスコに勧告。同年6月に開かれるユネスコの第40回世界遺産委員会で登録の可否が審議される。