1910年に幸徳秋水はじめ、クリスチャンの女性を含む社会主義者や無政府主義者が弾圧され処刑された「大逆事件」が持つ意味を考えようと、日本キリスト教婦人矯風会と日本聖公会東京教区人権委員会は5日、矯風会館(東京都新宿区)で2回にわたりドキュメンタリー映画『100年の谺(こだま) 大逆事件は生きている』(90分、2012年)の上映会と制作者らを交えたトークセッションを開催した。映画のチケットは完売し、会場は120人の参加者でほぼ満席となった。
1回目の上映に先立ってあいさつした同委員会委員長の佐々木国夫氏は、「大逆事件は、反戦・差別・貧困などの社会問題に立ち向かい、世の中を良くしていこうという、自由・平等・博愛の思想を時の政府が弾圧するために捏造(ねつぞう)した冤罪(えんざい)事件だと思う」と語り、正当な裁判もなく死刑という、日本の裁判史上に最大の汚点を残した事件でもあると述べた。
佐々木氏は、「戦前の政治体制に逆戻りしたら、私たちの活動は権力に弾圧されてつぶされてしまうだろう」と警告。その上で、「今、国会では安全保障関連法案という名称の戦争法案が与党多数で審議されている。一昨年、特定秘密保護法案が可決され、昨年7月には集団的自衛権の行使を認める閣議決定がなされた。安倍政権はこの秋に戦争法案を成立させようとしている。さらに安倍首相は平和憲法を戦争できる憲法に変えようとしている」として、「この時期の『100年の谺』の上映会は非常にタイムリーな企画になった」と付け加えた。
上映後に行われたトークセッションでは、映画の制作者である千原卓司氏、矯風会理事長の川野安子氏、日本聖公会池袋聖公会司祭の井口諭氏がそれぞれ10分ずつ発言した。
千原氏は、この映画の成り立ちについて、映画監督・脚本家の藤原智子さんが「大逆事件を明らかにする会」の会員になり、大逆事件のことを長年にわたって調査・研究し、それが今回の映画に強く反映されていると語った。
「事件の犠牲者の紅一点である管野スガを中心にした映画にしようということでいろいろ調べた。管野スガを大逆事件の全体の流れの中で再評価してみようという狙いで企画を立てていった」と千原氏は説明した。映画のパンフレットによると、管野スガの名前の表記は、戸籍上は管野スガだが、執筆名は管野須賀子で、管野すが子とする場合もあるという。
管野とキリスト教の関係には非常に深いものがある。まず、管野が大阪で「大阪朝報」の記者になったきっかけは、管野の師匠であった小説家・新聞記者でクリスチャンの宇田川文海だった。管野は日本組合天満教会(大阪市)で洗礼を受け、その後、社会主義者・労働運動家の荒畑寒村と知り合い結婚。幸せだったが、「毎日電報」(現毎日新聞)の記者として働いていたとき、赤旗事件(1908年)で逮捕され、無罪で釈放されたが毎日電報をクビにされた。そして管野は社会主義の影響を受け、大逆事件に巻き込まれていった。
千原氏によると、この映画ができた後も、大逆事件の犠牲者について各地で顕彰運動や再評価運動が広がっているという。
次に、川野氏は矯風会と管野の関係について、「(矯風会の機関誌である)『婦人新報』の中ではあまり管野さんの署名がある記事というのが見られない。管野さんは一夫一婦の実現を精力的に呼び掛け、そのようなところは矯風会の活動と一致するところがあった」と説明し、「(管野が)公娼制度を軸とする女性の商品化をやめさせようと果敢に闘った」と語った。
川野氏によると、1903年に矯風会の会頭に選ばれた潮田(うしおだ)千勢子はこの運動の応援・激励に大阪に来ており、この時、管野とも出会い、つながりを持つことができた。管野はその5月に矯風会に入会している。潮田は病気が悪化して7月には急逝したが、大阪婦人矯風会が主催した潮田の追悼会では、入会2カ月目の管野が追悼文を朗読しているという。
また、管野は大阪婦人矯風会に初めてできた文書課長にも選出された。これは、有給の職員だったが、それ以後も三選された。「彼女に対する信頼が厚かったと思う」と川野氏は言う。文書課は新聞や雑誌への投稿、パンフレット作成などによる宣伝活動が仕事で、「矯風会の立場に立って主張した記事を『基督教世界』という新聞にたびたび投稿して、須賀子が専念している様子が知られる」と説明した。
川野氏によると、日露戦争(1904~05年)の戦死者記念追悼会が大阪で行われたときには、師団長、知事、市長と並んで、矯風会の代表者として管野が追悼の辞を読んだということが残されている。1903年、矯風会の全国大会に参加した管野は、大会で社会運動家の木下尚江らが演説したのを聞いているという。
1904年の大会で管野は、ガントレット恒子、羽仁もと子、渡辺つねらと共に時事問題委員に選出された。「管野の文書課長としての活躍が注目を浴びていたとみられる」と川野氏は言う。「大会に参加した翌日には平民社を訪れて堺利彦と会い、大阪で平民社の読書会を組織するなど、社会主義思想に傾倒していったようだ」と付け加えた。
川野氏によると、和歌山県の田辺で発行された「牟婁(むろ)新報」に、管野は「やや思想の変化せる今日この頃、矯風会そのものの上に飽き足らぬ節は少なからねど、とにもかくにも現今社会における婦人の働きとしてはうるわしき矯風会の事業なれば、私はその成功を望むものなり」と記しているという。「社会主義に傾倒していった須賀子には、矯風会の活動は恐らくまどろっこしいものだったのかもしれない」と、川野氏は語った。
1903〜05年、管野は活動の場を矯風会に置いていたが、1906年には病弱な妹・秀子を伴って上京し、赤旗事件に巻き込まれ、妹の死、管野自身の結核療養・入退院の繰り返し、幸徳秋水と創刊した『自由思想』や『直言』の発売禁止、罰金刑、投獄の繰り返しなど、不幸と弾圧の続く暮らしだった。「短い人生を女性人権運動に精いっぱいかけた須賀子にとって、大阪婦人矯風会の活動に専念していたこの時が一番充実した時期だったのではないかと思う」と川野氏は評した。
そして、「須賀子が激しく告発した性の商品化の問題は、今もって解決しておらず、私たちの大きな課題だ。ただ今の映画を見せていただき、須賀子からのメッセージを今もしっかりと受け止めていかなければならないということを感じさせていただいた」と、川野氏は今日的な課題に触れて発言を締めくくった。
井口氏は、「最大の人権侵害は国の人権侵害。その中でも戦争は最大の人権侵害であると思う。私はこの『100年の谺』(で描かれた大逆事件)も日本が戦争に向かうための冤罪だと思っている。私たち東京教区の人権委員会は国の人権侵害を一番恐れている」と語った。
井口氏は、ハンセン病患者と国の隔離政策について話した上で、「私たちは本当にどちらの側に立つか。冤罪・人権侵害を起こす国の側に立つのか、それとも(人権を)侵害されている人たちの側に立つのかというのが、これからも大事なことだと思う」と述べ、「戦争法案が審議されているが、これが法律になったら私たちはもう反対するのが難しくなってくると思う。今が大切な時だと思う」と付け加えた。
■ 映画『100年の谺』予告編